これを書いている今(午前1時半)から、あと30分で始まります
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3599/2315409/index.html
プレミアムカフェ 司馬遼太郎“アメリカ素描”を行く(初回放送:2003年)
2月26日(金)午前9時00分〜午前11時05分
3月5日(土)午前2時00分〜午前4時05分
司馬遼太郎 アメリカ素描を行く(初回放送:2003年) 2016年2月は司馬遼太郎没後20年の節目。司馬さんが見たアメリカとは? 「アメリカ素描」に描かれた司馬さんの思索の旅をたどる。
紹介する時間が時間だから、朝この記事読んで「みのがしたー」って人もいるだろうな…自分も遅くに知ったのですいません
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1989/04/25
- メディア: 文庫
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このブログでもなんども紹介した「文明と文化」論を、「文明の国」にいって考える…。
見のがした人のために、…映像は紹介できないが文章のほうを紹介したい。
人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているものが、文明と文化である。いずれもくらしを秩序づけ、かつ安らがせている。
ここで、定義を設けておきたい。文明は「誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
たとえば青信号で人や車は進み、赤で停止する。このとりきめは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。
不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。
私はこのひとにむかい、アメリカをことさらに概念化して意見をのべた。つまり、アメリカとは文明だけでできあがっている社会だとした。しかし人は文明だけでは生きられない、という前提をのべて、だからこそアメリカ人の多くは、なにか不合理で特殊なものを(つまり文化を)個々にさがしているのではないか、といったところ、このひとはながく考えてから顔をあげた。
口から出たことばは、べつの主題のことだった。
『もしこの地球上にアメリカという人工国家がなければ、私たち他の一角にすむ者も息ぐるしいのではないでしょうか』
かれは、経済や政治の問題をいっているのではない。
〔……〕
いまはアメリカで市民権をとることが容易でないにせよ、そのように、文明のみであなたOKですという気楽な大空間がこの世にあると感じるだけで、決してそこへ移住はせぬにせよ、いつでもそこへゆけるという安心感が人類の心のどこかにあるのではないか。この人のみじかいことばは、そういう意味のようであった。
これが、ただの日本人でなく、在日韓国人のことばだけに心にしみる思いがした
ここで1970年代に司馬が取材、描写した(主にアメリカ国内の)人々の2003年の様子が映像に納められ「ああ、あの作家の人ですね…。彼はあのとき…」と思い出を語っている、貴重な証言集でした。