発表前にうっかりバラしちゃうドラえもん pic.twitter.com/NVKGDOZrCI
— 名無しのゴンスケ (@nanashigonsuke) 2019年4月1日
実際に使われるのは1カ月あとなのに、発表だけで、「令和」に関して日本が沸騰した。
それらの話題をいちいち取りあげるのは不可能なので、お馴染みの話題を、確認を兼ねて再度紹介しておきたい
ここで、定義を設けておきたい。
文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。例えば青信号で人や車は進み、赤で停止する。この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で言えば交通信号は文明である。
逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという合理主義はここでは成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をもたらす。。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。…
(中略)…以上の事からいうと、日本などは精神の安らぎのための不合理な習慣でつまっている。
年末だけでも年賀状を書き、お歳暮を送り、忘年会で飲み、紅白歌合戦を見、年越しそばをすすり、除夜の鐘をきき、気の早い人はそのまま初詣に出かける。
そういう文化の蓄積とその共有が、自然とクニの形をとったのが、地上のほとんどの国の場合である。
人間は文化という(他からみれば不合理な)マユにくるまれて生きている。頂上に文明があるにせよ、民族や個々の家々では、普遍性に相反する特異さで生き、特異であることを誇りとしている。そういう誇りの中に人間の安らぎがあり、他者からみれば威厳を感じさせる。
異文化との接触は、人間というこの偉大なものを、他者において感ずる行為といっていい。
元号は、過去には吉兆やあるいは災害を受けて改元したり、明治以降は君主在位の一世一元での改元だったり・・・・どちらにしても、とりたてての合理性や、区切りの良さというものがあるわけではない。
「むだ」「不合理」ではないか、といえばそういう面はたしかにあろう。
そして、それがあるからこそとりもなおさず「文化」なわけだ。
そして、結果としてどこからどうみても、それによってトータルで皆が”楽しんで”いるといっていい。その前の「平成最後の」という修飾語の使用も含めてだ。
それは、太陽暦と比べらた合理性には劣っていても多くのアジア諸国で旧正月を祝ったり、太陰暦にもとづいてラマダーンをイスラム諸国が実施するのにも似ている。それも「むだ」で「不合理」と言えば言えるかもしれないが、それを嘲笑したり批判したりする日本人や西洋人はそれほど多くなかろう。
m-dojo.hatenadiary.com
実際に、ある種の物珍しさや好奇心を感じ、それに敬意を持つ人のほうが、その逆より多いのではないか。
或いは、(結果的には不幸なことで、その不幸は外的要因であることも間違いないが)「合理性」という面からはアイヌ語やハワイ語の復権にどれほどの合理性があるか、ということである。
hawaii.jp
だが、それらはやはり文化として残す努力がなされている。
それが司馬遼太郎のいう
特異であることを誇りとしている。そういう誇りの中に人間の安らぎがあり、他者からみれば威厳
なのかと思う。これは言い換えれば
なのだな、と。そんなところで新元号発表の話でした。