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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「大山空手vsムエタイ」そして”鬼の黒崎”ーその真実とは?(「沢村忠に真空を飛ばせた男」紹介その2)

きのうからの続きとなります。過去記事はこちら
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大山カラテのタイ遠征、その光と影ーーー


「格闘技の歴史で一番のターニングポイント」と、あの不世出のプロモーター石井和義が太鼓判を押す「大山空手vsタイ式ボクシング(ムエタイ)」。
昭和39年に、日本ではなく現地タイ国で行われたこの他流試合が、 なぜそんなに大きな意味を持っていたのか?その謎を探る第13章が、この大著「沢村忠に真空を飛ばせた男」中でもとりわけ白眉だと思う。


ここでいきなり余談を始めるけど(笑)、今やっている東京五輪の柔道やレスリングなどの競技を見て思うのだが……。
世界の多くの国が、 UFC が発展するまでは、いや発展した今でも、腕におぼえのあり血気盛んな「乱暴者」が腕っぷしを鍛えて世間でひとかどのものになるのは、この種のオリンピック競技になった格闘技をやるか、あるいは地位の確立されたボクシングに身を投じるか、あるいはジャンル違いであることを承知で「プロレス」の世界に進むか、しかないのである。
曲がりなりにもキックボクシング MMA が「プロ」として一般的に行われる国はまだまだ少数派だろう。そしてさらにごく少数の国では相撲・モンゴル相撲・セネガル相撲、そしてムエタイ…など、その国独自の伝統やしきたりを 背景にした格闘環境もある……という感じだと思われる。


そんな中でなぜ野口修は、ムエタイvs空手などという突飛な発想に至ったのか?

簡単に言ってしまえば、 ボクシングの世界で、世界王者挑戦が射程にあった弟・野口恭が思わぬ誤算続きで敗北、引退して大きな手駒を失い、ファイトマネー支払いに絡む外為法違反も追及されてテレビ局からの定期収入も絶たれた彼が、起死回生の一手として考えついた興行だったからだ。


だが、ボクシングジムも経営していた野口はなぜ空手という「外部」を対タイ戦に使おうとしたのか?自分のボクシングジムの若手とかではなかったのか?

これについて筆者は、野口修本人から極めて貴重な証言を引き出している。その光景を観たのは本人やその身内以外にいないから、ここで聞かなかったら歴史に埋もれていただろう。
この場面を歴史にテイクノートしただけでも、この本は測りがたい価値があるといえる。

要は、本職はムエタイだが、国際式ボクシングのトレーナーとして野口ジムで働いていたタイ人が、雑談からジム内での「異種格闘技戦」を道場主、そして野口修トレーナーの元で行うことになったのだった。

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タイ式に、ボクサーはかなわなかった~「沢村忠に真空を飛ばせた男」より

…「蹴りの届かない距離で戦って、隙を見て中に入って腹を打てば勝てる」と言う者がいれば、「ついでにアッパーも入れたらいい」と言う者や、「少々の蹴りを食らっても効かない脚を作って、気にせず前に出続ければ勝てる」と言う者など様々な意見が飛び交った。「共通するのはいずれも、「ボクシングの技術だけでタイ式に勝てる」という結論だった。タイ人はニヤニヤするばかりで何も言わなかった。「離れた場所から会話を聞いていた道場主の野口恭が、頃合を見計らって口を開いた。「素早く踏み込めばパンチは当たる。合気道の摺り足の要領で中に入って、懐に入ればワンツーは当たると思う。ただ、攻撃をもらうことは覚悟しないといけない。この方法でタイ式に勝てるのは、世界ランカー以上じゃないと難しいだろう」
指導者らしく理論的に分析した。それでもタイ人は顔を見合わせるばかりである。


ここで野口修が、輪の中に入って言った。「じゃあ、試しに1ラウンドやってみよう。お前、動けるか」と、ボクシングの勝利を声高に主張していた若い選手を指名した。四回戦ボーイで階級はフェザー辺りだったという。「悪いけど、あいつの相手をしてやってもらえないか」とタイ人にも声をかけた。フライからバンタムに属する彼は笑顔で頷いた。
修は、緊張気味に10オンスのグローブをはめてているボクサーに「お前が倒したら、今月の月謝は払わなくていい」と耳元で囁いた。四回戦ボーイの目つきが変わった。「急遽「ボクシング対タイ式ボクシング」の他流試合が始まった。自由に戦っていいオープンルールである。ヘッドギアはなし。レフェリーは野口恭が務めた。「開始と同時に、ボクサーは恭が提言したように素早く踏み込んだ。ガードを下げたままのタイ人は頭を振ってかわす。この攻防がしばらく続いた。「力量を試すように、タイ人が軽くミドルキックを繰り出した。「バシン」という重く鈍い音が道場に響くと、ボクサーは顔をしかめた。続いて、ジャブからローキックというコンビネーションを見せるも、ボクサーは反応できない。

さらに、抱きつくようにふわっと組みついたタイ人は、首相模で振り回した。小柄な男のどこに そんな力が宿っているのか、ボクサーは為す術なく振り回された。
そこからタイ人は、膝成りを三発ほど繰り出し た。ボクサーはたまらずダウンを喫する。腹を効 かされただけでなく、平衡感覚を失ったのもあったのだろう。
立ち上がったボクサーに「いつも通りやれ」と 仲間の一人が声をかけた。レフェリーの恭も、 「落ち着いてやれ」と声をかけた。
小さく頷いたボクサーは、気を取り直すように 細かくステップを踏むと、リードジャブを繰り出 した。スイスイとかわすタイ人だったが、そのうちの一発が鼻先を捕えた。 「ここぞとばかりにボクサーが踏み込むと、タイ人の膝蹴りがボディに炸裂した。カウンターで合わされたボクサーは、マウスビースを吐き出し、 そのまま悶絶した。
試合は終わった。相手にならなかった。 「ボクシングの技術だけでは、タイ式には絶対に歯が立たない」と野口修が実感したのは、この夜のことがあったからだという。では、ボクサーが蹴りを習得すればいいかというと、そうとも思わなかった。ステップを踏む、細くて美しい脚をも失うことになるからだ。
修は決意した。「タイ式ボクシングと戦わせるのは、ボクサーでは無理だ。空手家だ」

タイ式ボクシングーーーーその強烈無比の実力は、拳二つのみで闘う国際式ボクシングではとてもかなわぬもの!
それに対抗するには…同じく手も足も使う、わが日本のカラテのみっ、それもケンカに近い実戦の…あの二流派!!!!


……と、口調がついつい梶原風になるが(笑)、そんなことで最初の最初に「ムエタイと、国際式ボクシングが両方自由に闘うなら、ムエタイの圧勝になる」ということを野口は悟り、結果キックボクシングがボクシングの一部(傘下)になるような流れは無くなったのだそうだ。



ちなみに「あの二流派!」と書いたのは…実はこの対タイ戦に出場する可能性があったのは大山空手(極真)だけでなく、「総合格闘技の真の先駆け」と評する人も多い『日本拳法』も、だったのだ! ではなぜ日本拳法はこの時、そうしなかったのか…という一幕も、いかにもそれぞれの武道家の個性や思惑、当時の時代状況などが浮かび上がって面白い箇所。


そして大山倍達の思惑と野口修の思惑も、またさまざまに絡み合い、キツネとタヌキの化かし合い的な様相を見せる……そして最終的には、「鬼」の黒崎健時を総帥とするチームが、タイに殴り込みをかける。

だがこの時、黒崎氏は「いくつかの経緯があって、私はこの話を黒崎個人として引き受けることにしたのだ」という、非常に含蓄に富んだ回想を残している。極真でも大山空手でもなく、「黒崎個人」とは…….



ここら辺でのちに決裂する黒崎と大山の関係,
そしてオーヤマと野口の関係,
もろもろが透けて見える…。そもそも、最終的には2勝一敗で勝ち越し、大いに面目を施した上で飛躍のきっかけとなった極真空手…とはいえ、この試合が決まるまでの躊躇や怯懦、打算や欲望は渦巻き、ギャラに関してもあれこれと言い分が食い違う。

そして黒崎氏本人にとってみれば「この敗北をきっかけに打倒ムエタイの旗印を掲げ、ついには愛弟子藤原敏男が外国人初のムエタイ王者となった!」という麗しいエピソードにはなってるとは言え、それでも負けたことが悔しいし恥ずかしいという意識も完全に拭いたわけではない。と言うかこの本では、往年の「梶原史観」で語られ続けた「ムエタイの肘が額を切り裂く形になり、体力もやる気も満々だったがルール上、出血が止まらねばTKOとなり無念の敗北…」ではなく、普通にヒジの後にパンチを入れられて KO 負けしてたらしい(笑)。
それを隠して、そういう話を語り続けた黒崎氏、勝負師としての維持や可愛げも感じるが、一方で「器の大きさ」 に対して、やや疑念を抱かせるのも事実である(笑)。


マス大山は大山で、野口修にも黒崎健時にもいいたいことはやまほどあったようで、「真空を飛ばせた男」も資料として引用している「添野義二 極真鎮魂歌」では。まあすごいことを…というかこっちで先に「野口修」を知りました。
以前、ちゃんと紹介してる。

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キックに関しては野口に騙されたようなものたよ。弟子をタイに連れて行っていい結果を出したらかなりの報酬をくれる約束だったが、黒崎があんな負け方するものたからギャラはゼロだという。黒崎はコーチで行ったのたから試合に出れば負けるのはわかっていたのに、勝手に試合に出てぶざまに負け…(後略、リンク先にて)

黒崎健時正伝」

ちなみに、 様々な資料を読んでいると逆にわからなくなる「黒崎氏は大山門下になる前、あるいはそこでの修業時代に、何をしていたのか(主に生計・経歴など)」という話に関して、この13章に先立つ11章では、驚くほど率直な記述がされている。
「男の星座」でもほのめかされているが…

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男の星座2巻、黒崎健時の若き日


それは作者が、戦前からの格闘スポーツと、行動派国粋主義勢力(要は、右翼ってことだ)との関係を緻密に追ってきたからこそ、そこからの流れで記述が腑に落ちると言うことでもある。

「護国団」
「佐郷屋留雄の書生」
「昭和31年、警視庁が逮捕」

など、さまざまな経歴があきらかになっていくが、中でも「池袋の極真本部会館の建設に黒崎氏は金銭面で極めて大きな貢献をした」「その原資はタクシー会社のスト破り活動で、氏に支払われた報酬」というから、さすがに驚きも大きくなる。



四角いジャングルに「黒崎は地面に抜き手を突き立てる猛特訓をしたため、手の小指が腐ってもげてしまった」という挿話が語られていて、「そんなことがあるんだろうか?」と思ったが、こういう資料を読むとアッ、ハイって感じであります。


この「スト破り」に関する最初の情報は、あの人のあのブログからもたらされ、作者の細田氏は、それをもとに周辺資料を発掘し、これを単なる伝聞証言ではない、極めて信憑性のあるものにしている。

それはこちら

…今回は極真会館本部(豊島区西池袋)の建設資金が果たして何処から出たかという話で、これが「表の大山、裏の黒崎」に大いに関係がある。尚、同館は現存するも大山総裁没後、極真会館は分裂して、その機能は失われている。
 
会館新築の原資は、豊島区内のタクシー会社の労働争議のスト破り報奨金(昭和30年代)という途方もない裏金であった、と知ったら極真関係者ならずとも驚くであろう。件のタクシー会社は、労働組合の長期ストライキに困り果て、人を介して「スト破り」を大山道場に依頼してきた。
 
経営者は、力ずくでストライキを蹴散らす他はないと考えた譯だ。そこで白羽の矢が立ったのがケンカ空手で名高い大山道場(後の極真会館)で、当然裏社会の仕掛け人となれば、黒崎健時師範代(当時)を於いて他に人は…(略)

…兎も角もその成功報酬が今日の金額で何んと3000万相当だったという。
 
このお金が極真会館新築原資になったというわけだ。当然経営者から強引に毟(むし)り取った金だろう。黒崎先生だ、いずれにせよ、最後の詰めは怠るまい。
 
あるとき黒崎先生は、会館建設の金はオレが用立てたんだ、人の苦労も知らないで、と私に漏らしていたから、あるいはスト破りは簡単なものではなかった、かも知れない。
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それはそれとして、とにかくこのタイvs空手は成功したということになり、日本で和製英語「キック・ボクシング」と命名された新しい立ち技の競技…というより”興行”が生まれようとしていた。うまくテレビ局などもつけて準備は順調……しかし、ここで大問題が起きる。現地でタイの選手(どの程度のレベルだったかは色々…)に KO 勝利し、周囲が一致して「一番才能に溢れており、しかもルックスもいい。文句なしのエース候補」とみなしていた極真の「中村忠」が、突然発足する極真ニューヨーク支部支部長になるというのだ。それに先立ち、黒崎氏もオランダ修行を命じられている。
そこにはどう考えても、大山倍達とその道場に、この野口修の「キックボクシング」と距離を置こうという意識が垣間見えた。

そんな方向転換の理由は。そして、そうであってもキックボクシングは旗揚げしなければならない。つまり、新たなるキックボクシングの「スター」をなんとしてでも「発掘」しなければいけない。どんな手段を、使ってでもーーーーーーーーーー



そしてついに書名タイトルたる「沢村 忠」(※中村忠と名が似ているのは、勿論偶然ではない)が登場する。そして、表裏も真偽もさだかならぬ「底が丸見えの底なし沼」は、プロレスだけでなく、この黎明期のキック界にも大きく口をあいていたのだ……


(続く、といいたいところだが、ここまでダラダラ紹介してもまだ半分もいかぬ…興味深いところが多いからだが、これ以上書けるかは全く不明)