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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

日本に「キックボクシング」が生まれるまで―「沢村忠に真空を飛ばせた男-野口修評伝」を読む…※つもりだが、序説

「プロモーターには2種類いる。悪いか、すごく悪いかだ」―カール・ゴッチ

このシンプル過ぎる命題の真偽を、500ページ以上の分量、10年の取材期間を費やして検証したと言ってもいいのが、「沢村忠に真空を飛ばせた男ーー プロモーター・野口修評伝」だ。

この作品を紹介しようとすると対象となる人物があまりに複雑な活躍分野に及んでいるので、なかなか切り口に苦労する。

ここはひとつ断片的に印象に残ったこと箇条書きする形式で、読後感想をメモしておきたい。

・・・・・・・・・・ただ、書いていたら相当な分量になって、その上で、重要部分の入り口にやっと立ったところまでしかこなかった!以下の文章は名実ともに「序説」です。この後、可能なら続きを(たぶん別記事で)書きます。

・ボクシングには、ピストン堀口に代表されるような、戦前からの系譜がある。 そしてそれは、ボクシングに関わらないがぶどうが持っていた戦前右翼との関係、一方で海外由来のジャンルであったことから必然的につながるモダニズム、そして怪しげな「興行」や「喧嘩自慢」とも深く繋がっている。

そこは理解していたつもりだったが、しかしちょっと掘っただけでいきなり浜口雄幸暗殺犯人や、若槻礼次郎暗殺未遂事件と繋がるというのはダイレクトすぎる(笑)。

野口修の父親野口進はそういう出自を持ち、家自体も上海で慰問の芸人を取り仕切るような仕事に関わっていた。



・一方で、明治の終わりぐらいから「柔拳」ーーーボクサーと柔道家たちが、混合ルールで戦う催しは結構頻繁であちこちに行われたそうだ。講道館も途中から手を引いたんだが、ある時期までは密接に関わっていた。自分は「柔拳」 という言葉は、ユセフトルコがその出身であることなどを通じて知っていたが、これほどの規模や国際性を持っていたと思う知らなかった。
やはり明治であっても、素手で戦う喧嘩要素の強い技術、スポーツが2種類あったら「じゃあどれが強いんだ?やってみせろ」「お前らがやるんならみんな集めて見物料を取ろうぜ。それを俺が仕切るから」というベクトルは”自然発生”するみたいだ。

この前「 アド・サンテルvs庄司彦男の試合を、鬼滅の刃の登場人物が見ていたら?」と言う妄想どっかで語ったことがあったけど、そんなふうにもう少し「明治~昭和初期の異種格闘技」もメジャーな題材になっていいんじゃないだろうか。結構記録も残っているようだ。





・戦後間もなく、野口家は、野口修の弟・野口恭が日本王者になったこともあり、本格的なボクシング工業に関わっていく。戦後間もなくのボクシングといえば、はじめの一歩でジム会長が若い頃として描写されていたが、例えば試合のインターバルや健康ケアといった部分でも隔世の感があり、ある意味で出鱈目としか思えない。
その一方で、王座挑戦をめぐる駆け引き、東洋タイトルやら日本王座やら、ジムの工業県やらランキングやら…そういったものに関わる魑魅魍魎の騙し合い…これは今のボクシング界残っているものであり、素人が最初に思う「なんで〇〇vsXXは実現しないの?」みたいな素朴な問いがこの本を読むと結構シンプルに頭にスッと入ってくる。
これはちょっと意外な効用としてお勧めしたい。
当時は日本でタイトル戦を行うには「外貨」が必要になる…といった 、そんな風景も伝わっていく。



・そしていよいよ話はキックボクシングに入るのだが、ここが一番興味深かった、というところは「タイ」から見たボクシング、そして日本のキックボクシング黎明期の風景である。
タイ王国は日本と並んでアジアで戦前から独立を守り抜いた国家である。しかし日本のような帝国主義の加害側になって列強と肩を並べる…という形でもない。だからやはり、一度は敗戦したものの短期間で復興した日本との格差のようなものは、常に付きまとっていた。



・そもそも戦後ボクシングは日本人のナショナリズムを刺激する国際戦が人気だったが、当然ながら所得水準に差のある先進国…アメリカ人とかを呼ぶようなマネー(外貨)はなかなかない。ではどうするかというと、戦後日本よりさらに経済水準の低いフィリピンの選手やタイの選手を呼んでくれば、はるかに安く上がるし立派に「国際戦」に見えるというわけだ。プロモーターが自宅の一室あたりに数人単位で同居させて押し込めておけばさらに安く上がる。
もちろん一方的な被害者というわけではなく、タイやフィリピンのボクシングもそこは現地なりに「こぶし二つ、ボクシングで成り上がってやるさ!」という野心的で喧嘩好きな若者の出世街道でもあった。




・そしてボクシングの周辺に位置するように見られつつ、豊かな伝統に裏打ちされたムエタイは、間違いなくある時期まで日本の武道界を鎧袖一触するような、優れた技術体系があった。
ムエタイが文明開化期に世界中に広まり、日本のJUDOやKARATEのような存在感を見せるような世界線だってあったのかもしれないが、現実としてそれらはまだ知られざる神秘の技術として眠り続け……最終的には野口包むによって見出され日本に伝わっていく。それも最初の頃はボクシングの前座試合の添え物のようなものであるし、諸事情で日本のボクシング業界から干された野口が、逆転の一環として持ってきた企画の一つにすぎなかった。

初めのうちは伝統のワイク―も とても珍妙に見えて客席から失笑が起きたそうだ。




・だが……
ここから一気に、この本は我々(と言うか私)が好むジャンルに一気に迫っていく。
それはキックボクシングの源流となったもの、そして格闘技ジャンル時したいよ確立したものとして著者は「大山空手vsタイ式ボクシング」のタイ大会をあげているからだ。

リアルタイムでは当然知らない自分も、「四角いジャングル」「空手バカ一代」などで神話化されているため耳にしている極真空手とキックボクシングの抗争……

これは我々が考えているより大きな意味を持っていたようなんだ。

「日本の格闘技の歴史で一番のターニングポイントと言えるのは昭和39年の大山道場ムエタイの他流試合でしょうね。もしあれがなければその後の日本の格闘技界って全然違ったものになっていたはずです。あれこそがプロ格闘技の走りなんですよ。
プロレスに立って UWF 的なものは生まれなかったと思うし、極真もあそこまで大きくならなかったでしょう。ということは僕も空手を始めたかどうかわかりません。そうなると K 1も無かったことになりますから」石井和義・談

何がそれほど大きな意味を持っていたのか?(続く)