現代ビジネスから文春オンラインまで「鬼滅の刃」論が載っているのはすごいんだけれども。
ブクマ50越えと、少し人気のこの論文
『バガボンド』がこのようなプロットをたどったあげくに休載となっているのは、「俺が強え」を原理とするような、つまりひたすら強さをエスカレーションさせていくような男性性がとっくに行き詰まっていることの表現であろうと考えている。
いや、『鬼滅の刃』はまさに、主人公が強さを手に入れてより強い敵を倒していく典型的な物語ではないか、とおっしゃるだろうか。表面的にはその通りである。だが、『鬼滅の刃』には本当にそのような「強さへのフェティシズム」があるだろうか。
フェティシズムというのは、あるものをそれ本来の用途から切りはなしてそれ自体として愛好することだ。武蔵が行き詰まったのは、人を斬る技術は完成させたが、その技術を何のために使うのかが見いだせなくなったからだ。それは、強さをフェティッシュ化してしまったためなのだ。
そして言うまでもなく、『鬼滅』の中で強さをフェティッシュ化するのは鬼であり、今回の映画版では「上弦の参」たる猗窩座(あかざ)である。そのような意味での強さへの愛好や陶酔を、この作品は否定する。主人公の炭治郎が強くなるのは、もっとやむにやまれぬ必要からである。その必要とは何なのかを直接に考える前に、『バガボンド』で行き詰まった男らしさの系譜とはまったく違う男らしさの系譜の存在を指摘したい。(略)
炭治郎の最大の、そしてじつのところ唯一の動機は「家族(鬼になってしまった妹の禰豆子〔ねずこ、「ね」のしめすへんは「ネ」〕)を守ること」だ。助力なのだ。ただしあくまで主人公は炭治郎である。つまり、炭治郎のキャラクターは、『バガボンド』的な行き詰まりを越えて、なおかつ主人公が強くなり続ける少年漫画的プロットを成立させるために、助力者男性の系譜を接ぎ木した結果出来上がったと言うことができる。炭治郎は自らの強さに陶酔することはない。家族を守るという目的に陶酔することはあっても。
そして言うまでもなく、「強さは他者のために使われなければならない」というのが、今回の映画版のもうひとりの「主人公」とも言うべき煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)が伝える最大のメッセージ…(後略)
自分がつけたブクマの文章を再録
冒頭部分から違和感なんだけど、ヒーローの大多数は「強さは人を助けるため」がテンプレで、悟空や武蔵のような「戦うのがワクワクする」とか「剣そのものの求道」はむしろ例外的な像ですよね?
もともと「強さとは、闘いとは、他人を守ること。それが無ければ、自分から闘いを求めようとは思わない」という人物造形のほうが圧倒的にエンタメバトルものでは多く、フェティッシュに闘いや強さを求めるのは基本、変化球だったと思いますよ。もちろんスポーツとしての強さは、自らどんどん求めていくだろうし、そもそもそうあるべきですが。というかそういう仕組みにできたから「スポーツ」というものは偉大なんですな。
そして江戸時代の「剣豪」「兵法者」は…基本は大名家への仕官を求めたもの、というのは置いておいて(笑)、講談などで理想化された人物像はまさにスポーツ的な意味合いに武道を位置付けたものであり、それを求めつつ「本当の強さって何だろう」的に悩むのは、スポーツものと考えれば珍しくない展開である。
実際にリアルタイムの読者として、孫悟空が地球の命運をかけた戦いなのに、その戦い自体にワクワクしている描写は「あれ?この主人公は王道路線と違うなー」と思って、印象的だったですよ。
もひとつ。「戦うカリスマ女性主人公と、サポートの助力者男性」は増えたけど…「とにかく女性キャラを出したい」とどう区別する?
(略)……『バガボンド』で行き詰まった男らしさの系譜とはまったく違う男らしさの系譜の存在を指摘したい。
その系譜とは、「助力者としての男性」という系譜である。そもそも、早くは1980年代あたりから、魅力的な主人公の座は女性に奪われてきた。これはもちろん、社会においてフェミニズムがしだいにではあれ力を持ち、それに応答する形で男性性をめぐる反省が進んだことと軌を一にする。
ちなみに、メンズリブ(男性解放運動)が起こるのは1970年代であり、その後1980・90年代には学問的な男性学・男性性研究が盛んになる。これは、同時代の第二波フェミニズムと、より広い性をめぐる価値観の変化に応答したものだった。
例えば1984年(男女雇用機会均等法が成立した年)に公開された映画版『風の谷のナウシカ』は、そのような歴史を見事に映し出している。主人公ナウシカが、戦闘力が高く、科学的知識と叡智にあふれ、カリスマ性のあるリーダーであることは言うまでもない。そのような女性性に対応する男性性には何が起きたか。それは、そのような強い女性の「助力者」となる、ということである。
具体的には、『ナウシカ』においてはアスベルとユパだ。二人ともそれぞれにナウシカを慕うが、決して彼女を守りたいということではない。ここで助力者と言っているのは、「姫を守る騎士」とは明確に違う。肝心の姫は守られる必要がないのだから。彼らは我が道を進むナウシカを、基本的には見守るしかない。
気をつけたいのは、彼らは嫌々仕方がなく助力者になっているわけではないということだ。そうではなくそこには、助力者になりたいという「積極的な欲望」が存在するのだ。それは、フェミニズムの進展に応答して、それまでのマッチョで家父長的な男性性を反省して組み替える時に、助力者というポジションが絶好のものとして浮上したということだ
この話は、以前から謎なのだけど、
女性主人公でも、女性の指揮官でも、戦闘力の高い女性戦士でも、女性のメカニックや博士も、逆にいじめっ子や狡猾な陰謀家軍師、「俺様」な女性なんかも、たくさん出るようになりました。
でもそれって
「社会においてフェミニズムがしだいにではあれ力を持ち、それに応答する形」ゆえに増えたのか「かわいくて色っぽい、女性キャラをたくさん出したい!だからこの役目を女性にやらせよう」って、どこで区分するのか??
このへんは、以前からこうやって語っていたので興味ある方は。
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ま、ともあれ、
・物語の中の「キャラクター」として、男が独占していたようなジャンルは確かに、過去にはたくさんあった。
・しかし、時代が進むにつれ、「男に属性的についていたキャラクター」を女性のキャラクターが演じる、ものがどんどんどんどん増えてきた。
・慶賀の至り。とは言えるんだよ。
だけどなあ…最初に紅一点論を読んだとき、すでにこういう時代だったから慧眼でもなんでもないんだけど、やはり当時感じたように
「それってジェンダー意識の向上とか考えていたんですかね?『敢てテンプレ破りをしよう』、あるいは『なんでもいいから女の子を出せ!』という意識で、そうなってるんじゃないですかね?」と。
いまちょっと原典を探したら見つからなかったのだが、呉智英氏が「スケベ親父が女漁りの末『わしはウーマンリブとか、気の強い子が好きやグヘヘ』と言い出したら、男女平等は前進か」という問いを発していたことがある。
(抜粋)
1・エンターテイメント(に限定します)は、面白いものを追っていくと、キャラクターの「テンプレ」ができる。
2・それは往々にして、人種や国籍や宗教や性別や趣味に関する「ステロタイプ」を作ったり、それに乗っかっていたりする。
3・それが思想的に批判されたりする。
4・そんな思想とは別に「このパターンはもうマンネリだ!敢えてずらして正反対のキャラを描くぜ!」という人が出てくる。
5・さらには「どうせならかわいい女の子(男の子)にこの役やらせたいわ!普通のテンプレなら、おっさん(おばさん)の役だけどな」てな動機もある。
6・結果的に「若い女性のマッドサイエンティスト」とか「少女だが寡黙で戦闘力が最強。幼なじみの男の子をその武力で守ってあげる」「若い男だけど綺麗好きで掃除大好き」とかの「テンプレ破り」が生まれる。
7・それがフェミニズムなどの思想的にも評価される。
いや、それでいいんならいいんだけどさ!!!!
だいたい、1990年代に人気だった「戦闘力が高く、科学的知識と叡智にあふれ、カリスマ性のあるリーダー」と「サポート役の男性」では、こんな例もあったじゃないですか。…
美神令子と横島忠夫(爆笑)
フェミニズム的に推奨されるかは各自調査。
ということで、ちょっと首をひねった現代ビジネスの「鬼滅の刃」論だったことでした。
執筆後の補論__論文筆者からリプをいただきました
お忙しい中、ありがとうございます。ツイートでリプをいただきました
うーんと、まず、私の論文では「姫を守る騎士」物語とは区別していることが看過されていますし、その「王道」の事例を反証として挙げていただきたい……。後半の、戦う女性がフェミニズム的なのか、それとも単なる搾取なのかというのはその通りだと思います。なので『戦う姫、働く少女』を書きました。
— 河野真太郎/Shintaro Kono『暗い世界』発売中! (@shintak400) 2020年11月8日
というか、『鬼滅』は「姫を守る騎士」物語の定型を利用しているように見えて、ポストフェミニズム時代の男性性のあり方(あり得方)に応答する形で微妙に変化してますよ、という議論だったのですが、結構いろんなところで誤読されているのは書き方が悪かったと反省すべきでしょうか。
— 河野真太郎/Shintaro Kono『暗い世界』発売中! (@shintak400) 2020年11月8日
フェミニズムとポピュラー・フェミニズムとの関係というあたり、なかなか理解されないのか。
— 河野真太郎/Shintaro Kono『暗い世界』発売中! (@shintak400) 2020年11月8日
ポピュラーカルチャーはいきなりラディカルに定型をぶっ壊すことなんかできず、微妙な変化をしていくことしかできない。その微妙な変化を変化として認識できなかったら、変化なんか存在しないことになる。
— 河野真太郎/Shintaro Kono『暗い世界』発売中! (@shintak400) 2020年11月8日
これらに関して補足的に。
宇宙刑事シャリバン「強さは愛だ」を弾き語ってみた
♪強いやつほど 笑顔はやさしい だって強さは 愛だもの おまえとおなじさ 握ったこぶしは 誰かの幸せ 守るため
僕もこの台詞好きですね^^;
— 喜歡花貓的狗@無人機飛行員 (@aircraft_island) 2015年3月24日
それと「戦闘機として生まれてはいるが、一度も翼を血に染めることなく退役」も
“@Masa34:...ファントム無頼の「抜かずの剣こそ平和の誇り」を思い出しました…
自衛隊の皆さんはずっとこうであって欲しい pic.twitter.com/9HPhXmfQcL
「正義のヒーロー側は、自ら闘いを求めず、平和を望んでいる。悪が戦いを仕掛けるから、やむをえず降りかかる火の粉を払うのだ」というのが多数派だ、というのは、あまりにもテンプレ過ぎて、もう大前提としていいかと思ったのですが(というか「降りかかる火の粉を払う」という定型文がある時点でね…)
少年ジャンプで、誰もが認める「四番打者」を打った(バトル系の)作品を列挙してみましょうか
- 作者:岸本 斉史
- 発売日: 2000/03/03
- メディア: コミック
このうち、鬼滅の刃に似た感じで、ある意味で直系的な兄弟子はるろうに剣心、だと思いますけど。逆に、「自分が強くなること、バトル自体に喜びを見出す」、となると(最初に書いたように、スポーツものを除外すると)、広くとってせいぜいNARUTOとワンピースかな?
ジャンプを離れて、純粋に部数だけで選んだランキング・・・
あんまりバトル物自体がランクインしていないな、とは思ったものの、強さや闘いそれ自体に喜びを見出す系のキャラクターはやはり少数派(そういう系統はみな広義の「スポーツ・競技」ものに入ってしまう)で、それ以外のバトルはやはり主人公たちは「本当なら闘いではなく、平和を望んでいる」という話にテンプレとして収束していると思います。というか、そこをひっくり返すのって、すごく作劇的にはカロリー、労力を要しますし、それで得られるものも少ないですから。
作劇的なことで余談として思い出したけど、「(正義の戦いではなく)自分の強さだけを目標、喜びとする」というのは、わき役あたりに配置するとなかなか座りがよくて、それをやったのが「七人の侍」の久蔵かなと。
久蔵(きゅうぞう)
演:宮口精二
修行の旅を続ける凄腕の剣客。勘兵衛の誘いを1度は断ったものの、気が変わり加わる。勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった奴」と評し、口数が少なくあまり感情を表さないが、根は優しいという側面を多々見せる。野武士との戦では北の裏山の守りを受け持つ。「肩衣」はつけておらず、合戦時も他の侍と異なり、籠手(こて)や額当(勘兵衛。菊千代は半首)、腹巻(勝四郎)・腹当などの防具は着用していない[注釈 2]。黙々と自分の役目をこなし、危険な仕事も率先して受け持ち確実に成果を上げる姿を、勝四郎は「素晴らしい人」と絶賛した。
www.youtube.com
七人の侍 - Wikipedia