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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「神が全能なら、なぜこの世に悪を生む?」との問い、イスラームの回答はこれ!(中田考氏の著書より)

4年前に、こんなはてな匿名ダイアリーがバズった。

神が人間を作ったなら、犯罪者が悪いんじゃなくて、犯罪者を作った神が悪いんじゃないの?

なんで人のせいにしてんの?
anond.hatelabo.jp

こんなのは、どこまでいっても「神学」の問いに過ぎない話ではあるが、やはりアルファにしてオメガの問いであるから、興味を持つ人が相当に多いのだろう。

自分が一種の”回答”として書いた記事も、大変に読まれた。その節は有難うございます。
m-dojo.hatenadiary.com

同種の記事が、なぜかうちにはごっそりあるので(笑)最後に資料集として置いておきますが、戦国から江戸期にかけての知識人の問いだけを引用しておこう。
ここの「デウス」はほぼすべて「アッラー」に脳内変換して差し支えない。

デウスはそもそもみづから天地人物を生ずる能力と養う能力があり、大公の父で無上の君というではないか。それならデウス自身が皆を善人につくって、全員をその教えに従わせればいいではないか。それができないで、世界中の人を洪水で絶滅させるとは何事か。デウスといえども、人をして皆このような善人にはできず、皆この教えを信じさせられないというなら、デウス天地創造の主とは到底言えないではないか



デウスと言う唯一なる神の戒律が、よりによってマサンとかいう甘干(あまぼし。干し柿のこと)のようなものを食べてはならない、などとは。老人をたぶらかし、子どもをあやすような話である。天国か地獄か、という一大事の因縁が甘干しとは、あまりにも役者不足である、古蜂屋入道は『あまぼし談議』と名づけたというがもっともだ。そもそも、なぜデウスは、アダムとエヴァを助けなかったのか。しかも、だましたのは、自分で作ったルシヘルである。あまぼしを食べたから、全人類は地獄いきとは…なぜデウスは、アダムが破戒するのを知らなかったのか。とても全知全能とはいえない



「彼は『ルシヘル』を創造しながら、その堕落を予見しえなかったデウスの無能力さについて『知らずんば三世了達の智と云へるは虚談なり。又知りながら作りたらば、慳貪(けんどん)の第一なり」
「(デウスは)天地の主にして国土万物を作り出し給うならば、何として、其のデウス、今まで無量の国を捨ておきて、出世し給わざるや」


これに対しての答えというのは、基本アブラハム一神教は共通してはいるのだが…日本で一番有名であろうイスラーム法学者・中田考氏の著書を読んでいたら、その箇所があった。


イスラーム法とは何か?

イスラーム法とは何か?

  • 作者:中田 考
  • 発売日: 2015/10/31
  • メディア: 単行本
日本人が知っている「イスラーム法」とは、幻想にすぎない。
ほんとうに、イスラームを理解するには、「イスラーム法」を知らなければならない。「イスラーム法学修学免状取得」をもつ第一人者による、イスラーム法の要諦。

以前、あの増田や拙記事に多くのブクマをつけたはてなユーザーに中には、興味のある人もおられるだろうから、情報をシェアします。

シャリーア制定者をアッラーと考えた場合、法の統治者命令説に照らすと、イスラームアッラーの命令の束であって法ではないことになるのでしょうか。この問題を考えるには、「強制」の概念を厳密に考える必要があります。法は、行為の「自由」を論理的に前提します。物理的に不可能な行為、あるいは物理的に不可避的に必然な行為には、法が介入する余地はありません。
「法が強制する」、という言い回しでは、「強制執行」のように公権力が物理的に法を執行する場合を除き、通常は、統治者が制の強制による威嚇によって人々に法の違守を強いることを指します。それはいかなる強大な権力をもった統治者、そればかりか、自然人を超えた地上における可死の神たる法人国家「リヴァイアサン」であれ、すべての人間の一挙一動を監視し法の遵守を物理的に強いることは現時点では不可能だからです。ところが、全知全能の絶対神アッラーは、お望みであれば、すべての人間に法の遵守を物理的に強制することができます。しかし、アッラーはそうされず、法の違反に対しては来世での罰で威嚇するのみで、強制されることはなく法の遵守を人間の選択に任されました。



…人間である統治者の強制による法においては、命令されたことが実行され、禁じられた事態が生じないことが目的であり、そのために刑罰による威嚇によって強制しようとするわけですが、全能のアッラーが制定したイスラーム法においては、目的は、命令されたことの実行、禁じられた事態が起きないこと自体ではありません。それが目的なら人間とは違い、アッラーにはそれを物理的に強制することが可能だからです。イスラーム法の目的は命令されたことの実行、禁じられた事態が起きないこと自体ではなく、人間が「自らの自由な意志で」命令の実行、禁止されたことの不履行を選択することなのです。


その意味で、イスラーム法を犯しうることは、イスラーム法の存在の内在的条件であるだけでなく、目的とすら言うことができます。なぜならイスラーム法を犯すことができないということは、イスラーム法を順守することを自ら選び取ることもできないということであり、それはアッラーに帰依するために創造された人間の存在理由の否定に等しいからです。

このイスラーム法の論理的前提を理解すれば、イスラーム法が施行されさえすれば犯罪のないュートピアが実現するなどという幻想をムスリムが抱くはずがないことが分かります。理想の時代であった預言者ムハンマドの時代にも強盗殺人、姦通などの犯罪はあり、それに対して、預言者が刑罰を執行した先例がイスラーム刑法の法源となっていることからも、それは自明、かつ当然です。

…重要なのは「善を行うこと」それ自体ではなく、自らの「自由な選択として」善を行うことです。なぜならそれだけが、人間だけの特別に可能なことだからです。その意味で、自由に善を行う、神の命に自らの自由な選択として従うことだけに人間の栄光は存ずるのです。

学問としてのフィクフは行為を義務、推奨、合法、忌避、禁止に類型化しますが、実はムスリムにとっては、行為が形式的に合法か不法かは問題ではないのです。それが自らの意志で神だけのために選び取られたことだけが、つまりイスラームの代弁者を騙る者への盲従からでなく、世間の目を気にしてでもなく、国家の罰への恐怖からでもなく、ただ神に対する敬慕と畏怖の念だけから神が嘉される善行を自ら進んで行ったことだけが問題になるのです。


実際のところ、ここでの説明は、以前の過去記事で紹介したキリスト教の教えとそれほど違いがあるわけではない。どちらにしても無明の異教徒からは、「どうも苦しい後付け設定っぽいんだけど。キン肉マンの超人墓場みたいに」と感じるのも事実だ。


ところで、そういう、「神の全能性」や「人間の自由意志」に関して、イスラームは徹底するあまりに面白い論争や、不思議な説話を残している。

……法と統治者の命令の最大の違いが、法が統治者自身を拘束することだとすると、イスラーム法についてはどうでしょうか。
立法者がアッラーである場合、礼拝の命令、飲酒の禁止のような命令がアッラーを拘束しないことは言うまでありません。アッラー絶対神ですので、アッラーに命令を下す者はいませんが、アッラーの自己自身に対する自己拘束はありえます。クルアーンにも、「(アッラーは)御自身に慈悲を書き留め給うた」(第6章第12節、54節)とあるように、アッラーは礼拝や禁酒を自己に課されはしませんが、人間に対して公正に慈悲深くふる舞うことは自らに課されたので、イスラム法を守った人間に対して天国の褒賞の約束を反故にして火獄に落とされるようなことはされません。なお,アッラーが公正であることについてムスリムの間で異論はありせんが、アッラーがその本性上公正であることが義務、あるいは必然である,というのが,シーア派、ムウタズィラ派の立場であるのに対して、スンナ派は、アッラーは絶対的に自由で人間の基準によってはかられることはなく、本性に命じられではなく、自らの自由な意思によって公正に振る舞われる。と考えます。

イスラームが理性的存在としての人間の優位性を高らかに謳歌しているのではないことは、クルアーンの以下の不思議な節からも知ることができます。
『まことに、われらは諸天と地と山々に信託を提示したが、それら(天地、山々)はそれを担うことを拒み、それに対して怯んだが、人間がそれを担った。まことに、彼(人間)はきわめて不正で無知な者であった。』(第8章第2節)

この節の「信託」は、自分の行動を自分で選びその結果に責任を負う自由意思による選択の自由を指す、と言われています。つまり、イスラームの世界観においては、人間は言語と理性を有することによって他の被造物に優越する特別な存在になったのではなく、人間は選択の自由を持ちその結果に責任を負うことを選んだことで、他の被造物と本質的に異なる存在となりました。そして選択の自由を引き受けたことで、人間は悪魔と並んで悪を犯す存在となったのです。


ここで選択の自由と責任を引き受けたことにおいて人間が「きわめて不正で無知な者」と言われていることはきわめて重要です。


『それから、煙であった天に向かい給い、それと大地に対して仰せられた。「服従して、あるいは嫌々ながらでも来たれ」。両者は言った。「服従するものとしてわれらは参ります」。(第41章第1節)』


人間は自ら善を行いうるとの愚かな思い上がりにより、善のみを行い神の賛美が存在様態であり即時的に善なる被造物であることをやめ、悪を犯す存在になり下がってしまいました。それゆえ、人間は「きわめて不正で無知な者」と言われているのです。天使と同じく被造物はそれぞれの言語で神を称えるために存在しており、存在様態そのものが善であり、悪を犯すことはありません。逆に悪魔は悪の化身であり存在様態そのものが悪です。人間だけが、自らの意志と責任において善を行うか悪を行うかを選択する、という特別な存在様態を有するのです。ですから人間が単に善を行うことには何の意味もありません。森羅万象のすべては万物の善なる行いなのであり、善であること自体にはなんら特別な意味などないからです。

最後の話は、なにやら壮大なおとぎ話だよね。

「おーい、天地と山々、お前らは自由意志で神の善を選び取る存在にならんかえ?」
「いえいえ、とてもとても。私どもは存在自体が善で、悪を犯しようもない今の状態がいいっす」
「欲のないやつだねおい。…じゃあ人間、お前さんはどうだい?」
「え、そうすっとおいらは特別な存在になるんすね?じゃあ、その自由意志ってやつ、いいとこ見つくろってください」
「こっちはずいぶんと安請け合いするね。心配だねどうも」


アッラーもなかなかに苦労がたえません…


しかし、天地も山々も、それゆえに存在だけで善なる存在なわけです。まことにアッラーはたたえらるべきかな。