この前も紹介した黒田勝弘「隣国への足跡」の一節より。
…戦争は、米中戦争の様相になった。双方で押しつ押されつを繰り返しながら、現在の南北境界線で休戦となった(一九五三年七月)。
しかし結果的には韓国は北朝鮮の武力侵略を撃退し、国を守ることができた。それが可能だったのは国連軍の支援があったからだが、その国連軍を後方で支えたのが日本だった。国連軍に多くの軍需物資を提供できる後方兵站基地として日本(の産業)が存在したからこそ、韓国は国を守り、 存在を維持できたのである。
この戦争の経緯から、韓国人はきまって「日本は韓国の犠牲で大もうけした」と非難げにいう。 確かに先の大戦の敗戦で経済的に疲弊していた日本は、この時の「戦争特需」で大きく息を吹き返 した。朝鮮戦争が日本経済の戦後復興の大きな契機になったことは間違いない。だから「大もうけした」というのはウソではない。
しかし、だからといって日本が非難されるいわれはない。 あの戦争は日本が(もうけようとして)始めたものではない。結果としてもうけたに過ぎない。
韓国人たちは日本がもうけたことを非難するより、戦争を仕掛け、かつ戦争を長引かせた北朝鮮や中国を、まずしっかり非難してほしいものだ。 「日本の協力、日本の産業力が存在したからこそ国連軍も韓国軍も持ちこたえ、北朝鮮と中国の武力侵略を押し返し、韓国は守られた」―これが歴史の真実だろう。結果としての日本経済の復興が気になるのなら、韓国も助かり日本も助かったのだから、それは日韓双方にプラスになった「ウイン、ウインの歴史」として世界に誇るべきものと考えればいいのだ。
朝鮮戦争というと pic.twitter.com/067TCfRUVB
— 寄星蟲 (@kisei64) 2021年6月26日
言われてみれば当たり前すぎる話なんだけど
日本は朝鮮戦争を踏み台に…な言説は非常に頻繁にあり、「はだしのゲン」では、この作品の欠点でもあり、突き抜けて個性といやあ個性でもある「めちゃくちゃ不自然なまでに戯画化されたキャラが説明的に語る」が発揮され、サングラスした”死の商人(またビジュアルが典型的すぎてリアリティ感のないワルモノ!)”が、草津民謡の節で「戦争〜いいこと〜どんどん〜 やれよ〜」みたいな歌を歌い始める、みたいな形で朝鮮戦争とその特需を表現していました。あまりいい読者ではないのだが、子供心にこのシーンは展開が不自然すぎるだろう!と思ったものでしたよ(笑)
あ、原文的なものが見つかった
わしゃ朝鮮戦争さまさまよ わしだけじゃないぞこの日本中の人間が朝鮮戦争のおかげでたすかっとるんじゃ 仕事のない者が兵器を作る工場で働けるしあらゆる産業が景気づいてもうかるんじゃ……
— 倉持勇造bot (@kuramochi_yuzou) August 16, 2018
朝鮮人どうしが殺し合って日本人のわしらには関係ないけえのう…… もっとやれもっとやれじゃ もうけだけはわしらがもらうけえのう
— 倉持勇造bot (@kuramochi_yuzou) August 16, 2018
戦争~~ よい事~~ 何回でも起こせ~~ ドッコイショ~~ 金のなる木が コリャ そそりたつよ チョイナ チョイナ~~
— 倉持勇造bot (@kuramochi_yuzou) August 16, 2018
こういう心情のゲスな人物が、朝鮮特需での企業者にいたかいないかといえば「いた」だろうけど、
歴史を見れば、そのゲスな人物の企業がどんどん物資を賄ったからこそ、兵站が重要な近代戦において、完全に先手を取られた国連軍が金王朝の軍隊を押し戻すことになったのもまことに事実。すくなくともゲンよりそれに貢献しているという皮肉……
さらにいえば、逆に、心の底から「スターリン・ソビエトや毛沢東のような赤い全体主義者に後押しされた北朝鮮の軍隊の侵略を許してはならない。そのために、彼らと戦う軍隊の物資を少しでも補給せねば!!」という信念で、一生懸命軍需物資を増産した商売っ気抜きの工場経営者がいたら、その人は立派なのか、というね。
それはともかく。
半世紀を経て、その侵略者から二世代後が君臨する国が、また不気味なことをし始めているが、もう二度と「兵站」の役目を担うことも、その兵站を基に命懸けで撃退する必要もないことを強く願う。
このから半年を経ても戦闘は続き、いわゆる「ザ・コールデスト・ウインター」がやってくる…
戦争の経過
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。
前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみで、農繁期であったこともあり、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があったため軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲から6時間も経ってからとなった。さらに韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。
開城・汶山方面の第1師団、春川・洪川方面の第6師団、東海岸の第8師団は奇襲攻撃を受けながらも健闘した[51]。特に第6師団は北朝鮮軍第2軍団の春川攻略を遅らせ、これによって6月25日中に春川を占領し、漢江沿いに水原に突進して第1軍団とともに韓国軍主力をソウル周辺で殲滅するという計画を大きく狂わせることになった[51]。マシュー・リッジウェイは「良く戦闘の準備をしていたこれら少数の韓国軍部隊のすさまじい勇気がなかったならば、1日ないし2日の貴重な時間が失われ、被害はさらに甚大なものとなったであろう。」と評している[52]。
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