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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

これぞザ・東大閥。「一時、極左のテロ標的だった西部邁が、学友だった中核派の大物に守ってもらった」らしい

「評伝 西部邁」をところどころとばしつつ読んでいた。

評伝 西部邁

評伝 西部邁

日本および日本人を問い続けた稀有なる思想家は、なぜ壮絶な自裁死を遂げたのか。西部邁の劇的な生涯を戦後史の中に描き、ニヒリズムを超えようとする思想的格闘の軌跡に迫る。深い友諠を結んだ文芸評論家による、初の本格評伝!
著者について
1952年北海道生まれ。文芸批評家。苫小牧駒澤大学特任教授。思想史、作家論など、硬質な評論で知られる。著書に『評伝中上健次』(集英社)、『江藤淳―神話からの覚醒』(筑摩書房)、『文学者たちの大逆事件韓国併合』(平凡社新書)ほか。

亡くなった時にも書いたが、自分は彼のあまりいい読者ではないし、彼の主張する保守主義にも共感をあまり覚えなかった。

ただ、外からその活動を眺めていると、どうもこの人は文章を書いて、それを媒体に発表するという意外に、何かの「活動」をしているらしい、ということが分かってきた。
大学人時代は講義や研究だろうけど、この人は雑誌「発言者(のちに「表現者」)」を主宰しつつ、なんというのか、講演会などを通じて政治家と”人脈”をつくり、また「夜の酒場」…といってもいかがわしい場所ではなく、いわゆる「大いなる助走」等で出てきた文壇バーの思想家・評論家版……『論壇・言論人バー』といった感じのところで他の言論と交友し、そこで何かの”影響力”を高め、何かの「運動」をしようという志だか欲望だかを抱いていたらしい、ということがわかってきた。

で、どこかで読んだのだが「(全学連指導者としての)経験上、”酒場での人気者”になるのは非常に得意だ」と自認するオーガナイザー気質でもあったらしい。
だから、正直思想家としての軌跡より、夜の酒場で論壇の勢力図、版図拡大を目指してあっちで肩をたたいて激励したり、こっちで激論の結果決裂したり…みたいな、ゴシップといっちゃあ悪いが、本には書かれない彼のそういう「論壇社会」でのあれこれを知りたい、と思っている。

その面白さを、西部自ら描いた本がこれ。2016年に紹介文を書いたから、その紹介だけでも面白いので是非とも読んでくれ。

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『西部さん、ちょっと用があるんだ。会いたい』というので、私は指定の料亭に出向いた。
(略)
亀井氏が口を開き、(有名大学の)理事長にたいして「あの国民文化研究センターの件だが、西部さんが理事長ということでいいでしょう」という。(略)私は狐につままれるの感であった。その研究センターのことなど、いわんや私が理事長になるということなど、片鱗も耳にしていなかったからだ。…時を置かずに亀井事務所から「また、あの料亭に来てほしい」との連絡が入った。…

亡くなった時の簡単な追悼がこれ(このとき、あとで書きたい、と言っていた話の一部が、今回の記事でもあります)
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まとめ
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今回の評伝も、いくつかそういう面でも面白いところがありました。

「西部の社交は多分に一方的なもので、何日後のアポイントメントではなく、今日これから新宿に出てこないかといった性急さなのだ。これにはほとほと筆者も音をあげた」とか「イタリア料理店経営者の息子と親子喧嘩をして、『発言者』主催の忘年会が予定されていたのに夫婦で始まる前に帰ってしまった」「カラオケで軍歌をうたいまくる」……なんかただのオヤジ的な挿話で、オルグの天才って感じでもないな(笑)






それはともかく、ここからが本題。

…高度成長後の八〇年代…(略)その頃、著名人になった西部邁は、保守派の論客として、左翼過激派から放火予告の脅迫(天皇制問題での発言絡みで)を受けていた。安保全学連の指導部だった前歴もあっ て、彼は警察に通報という手段をとるのを潔しとせず、怯える家族に困り果てていた。 救済の手を差し伸べたのは、親交のあった政治家で元警視総監の秦野章である。
秦野への追悼文「勇者は滅びぬ」(『サンチョ・キホーテの旅』所収)によれば、彼はOBの顔を活かして警視庁に連絡、夜間、一時間に一度の割で東村山市恩多町の西部邸(当時)周辺をパトロールするように手配、それを機に「彼ら」が近づく気配が消えたという。

この一件で筆者は、西部がどこにも書いていない(書けない)あるエピソードを本人から聞いている。問題解決のために彼は、安保全学連の書記長で、後に中核派の最高指導者となった旧友・清水丈夫にコンタクトするため、直接同派の拠点・前進社に電話し たというのだ。後日、代理人から清水が健在である限り、西部邁および家族への脅迫やテロはあり得ないとの返答があったという。さて、秦野カードが効いたのか、もしくは 清水カードにより「彼ら」の影が消えたのか。筆者には判断がつかない。
西部邁と清水丈夫は、かつて「お前ら精神的ホモ・セクシャルかと周囲からいわれ た」(『六○年安保|センチメンタル・ジャーニー』)ほどの仲だった。安保ブント (共産主義者 同盟)解体の時、西部は二歳年上の清水に、政治的に延命するなら革共同(革命的共産主義者同盟)に加わるしかないと伝えている。革共同は後に革マル派中核派に分裂、清水は後者の議長になり、庶民でも大衆でもない職業革命家の道を歩む。伝西部邁 125P

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西部邁極左テロの標的になった時、学友だった中核派の大物が守ってくれた(評伝西部邁 125P )

みなさん読みましたか、これが東大マフィアたちのコネクションですよ。
これは戦前からの伝統で、戦前左翼の転向に一番効いたのは拷問や脅迫でなく、こちらも学閥エリートの検察官や特高警察幹部が「同じ〇〇高(旧制)の先輩として俺は哀しいよ。なあ、ここで転向を表明しないか。そして一緒に肩を組んで、わが寮歌を歌おうじゃないか…」とかなんとか(笑)


それなりに「高等教育」を受けた層が思想信条や出身地に関わらずキャンバスで顔を合わせ、語り合い、そして社会の中心部に散らばっていく。いざという時は、そのネットワークが思想や立場を越えて機能し、裏のコミュニケーションによって、オモテでは解決不能な案件が、解決していく……

うまくいけば、結果を生む、非常に美しいシステムである。
だが、うまく行った時を含めても、おそらくは腐りやすい”ナマモノ”であり、現にこの話にも、かすかな腐臭がただよわないか?



まあ、それにしても何にしても、ちょっと面白い挿話だったのでご報告。