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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「武士の忠誠は子孫の俸禄を保障する仕組み。だから濃尾から覇者が生まれた」…との磯田道史説(朝尾直弘説)について教えを乞う

まず磯田道史氏の本は、災害関係と大河ドラマなどへの露骨な便乗を除けば全部買って読もうと思ってたのだが、こちらの情報網が疎く昨年1月に文庫が出たこの本を把握してなかった。

日本史の探偵手帳 (文春文庫)

日本史の探偵手帳 (文春文庫)



この本だけで書けることは山ほどあるんだけど、まず一つに絞って紹介したい。
と同時に、大いに疑問もあるので、皆さんに意見をたまわりたいのだ。


かくのが大変なので、少し写したあとは、ざくり箇条書きにする。
あと、タイトルでは、自分が読んだ磯田道史の説としてるけど、磯田氏本人が「学問の世界では朝尾直弘氏が本を書いている」というのでそれがオリジナルなのでしょう。

朝尾直弘著作集〈第3巻〉将軍権力の創出

朝尾直弘著作集〈第3巻〉将軍権力の創出

まず箇条書き

司馬遼太郎も言っているが、日本の江戸時代=近世は濃尾平野で作られた。
・近世とは何かといえば、墓石に代表される家制度、「家は永遠」という思想などだ。こういう無意識化の意識を歴史学ではマンタリテ、と呼ぶ
・中世の主従はそもそもいざ鎌倉で、呼ばれたら行く、というゆるい制度。負けたら軍隊は雲散霧消するのが普通
・それを変えたのは火縄銃。火縄銃に対抗するには「密集突撃形態」しかない。火縄銃の射程と連発までの間隔を考えると、密集突撃なら対抗できる
・そのためには、弾が飛んでも逃げずに主君を守る組織を作るしかない。
・それには「華々しく戦死したら子々孫々まで名誉と禄を保証するぞよ」という仕組みが必要だ、

という。
ここから、同書の文章そのものを引用してみよう

…万の大軍で押し寄せた軍勢が一度負けると「わずか三、四騎になりて落ちのびけり」となった…このように、中世武士たちは私的利害のために主従関係を結んでいるだけで、直接統冶する土地や、塩田、流通権益といった独自の経済基盤をもっていた(つまり兼業)。 家来といっても、江戸時代とは違い、同じ土地に住んでいない者が大半であった。当然、 主君のために死ぬなどという考えをもつ者などめったにいない。これを一変させ、近世武士が登場するきっかけを作ったのは、火縄銃出現による戦術の変化であった。
火縄銃の出現は、武士たちの戦術に大きな影響を与えた。火縄銃が使われるようになった戦場では、集団でひとかたまりとなり、その中心に主君をおき、密集軍団で突撃する戦法をとることが有利となる。いわば最前列が楯になり後陣が攻め込む戦法で、この戦法は、数分に一発しか撃てず有効射程一五〇メートルの火縄銃相手だからこそ効果的 となる。こうした戦法を得意とするのが濃尾平野の武士たちであった。かくして、濃尾平野から信長、秀吉、家康という天下を争うリーダーたちが生まれている。
それと、もうひとつ重要なのは、この戦法は、すぐ逃げ出す中世武士団では成立しな い。体を張って主君を守る家来がいないと実現不可能となる。そこで主君は、家来に もし死んでも、「遺族には、子々孫々まで家名と土地を保証する」ことで体を切らせた。 これが譜代の家臣の成立である。
これを濃尾システムと呼んでよい。この濃尾システムが誕生するのは一向一揆での戦いのころからだった。

再度、箇条書きに戻る

・なぜ、家を保障する仕組みが効果的なのか。この時期に農業のやり方が変わったのだ。
・それまでは武家が農村に住み、農民が下人、被官という身分で『粗放的大規模農業』をしていた(むしろ古い時代のほうが大規模農業だった)。
・ところが近世になりかけのころ、西国を中心に、少人数家族農業になった。こうなるとやる気がちがってくる。
・みんな必死で家の幸せのために、小さな田を耕し、それは丁寧に農作業をするようになった。武士はここから年貢を撮り、自分は城下町で武芸に励むプロ戦争屋になった。
・その分、武士は農民に口を出さなくなり、土地は農民が自由に使えるようになった(日本の土地権利の強さ、土地利用の無秩序さもこれに由来する)
・ただし京都周辺には、寺院など古い中世権力も根強かった。武士も「惣村」に縛られ大名への忠義は強くない。
・一方で濃尾平野は学問的には「中間地域」で、経済的には先進地だが中世権威は弱かった。
・そして東国武家文化もあり、地形も平たんなので播磨や備前と違い統一権力が生まれやすい。
・この「濃尾システム」の強力なライバルが一向宗だった。
・中世から近世に移る時、「神仏か現実か」の二者択一がある。極楽浄土の宗教に対して、「主君に忠義を尽くせば家名と土地は保証する。家は『長久』だ」を提示した。
・だから三河軍団も、三方ヶ原で大敗しても家康をぶじ落ち延びさせた。奇跡にちかいことだ。
・だから濃尾平野の軍団は日本全土を征服した。


…いや、実に面白いですね。
武家の忠誠というものも、家を保障されてこそのものだった。だから濃尾平野で発達し、戦国三英傑が覇者となった。それは火縄銃の発展と、農業が家族農業になったがゆえのものだった…と。
銃の発達が民主主義や国民国家を促した、という西洋の議論にも似て。



ただ。
磯田氏が紹介する学説では、中世では主君への忠誠意識が薄く、近世に強化された(江戸期の儒教普及の忠義論とはまた別であろう)…となるが。
磯田氏は学者には珍しく、司馬遼太郎の史論にも高い評価を与えていて、司馬日本論を論じてる歴史家だが…その司馬氏は、中世の忠誠意識(ダジャレではない)に高い評価を与えている。

たとえば、上で磯田氏がいう、近世濃尾平野忠誠意識の典型的発露、であったとの三方ケ原合戦も描いた、徳川家康主役の小説「覇王の家」。

覇王の家(上) (新潮文庫)

覇王の家(上) (新潮文庫)

  • 作者:司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/04/30
  • メディア: 文庫
覇王の家(下) (新潮文庫)

覇王の家(下) (新潮文庫)

  • 作者:司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/04/30
  • メディア: 文庫


ここでは、「三河尾張より遅れた後進地域」「だが、それゆえに主君への忠義の意識が尾張より高い」と、何度も描写されている。

…落ちくぼんで矢作川が水をたたえて南流しており、西隣りの尾張からの敵に対し、水の要害になっている。尾張の新興大名は織田氏である。 「三河はわしの草刈り場だ」と、織織田信秀(信長の父)は称していたが、かれはしばし ば軍勢を催しては、国境の矢作川をわたって、三河に侵入した。 茅ぶきの岡崎城にいる三河岡崎衆は、そのつど矢作川流域の野をかけまわって尾張からの侵入軍と戦わねば ならない。 「尾張衆の具足のきらびやかさよ」と、この当時三河ではいわれた。 尾張は一望の平野で灌概ははやくから発達し、海にむかっては干拓がすすみ、東海地方きっての豊饒な米作地帯であるだけでなく、街道が四通八達して商業がさかんであった。それからみれば隣りの三河は大半が山地で、人よりも猿のほうが多い、 と尾張衆から悪口をいわれるような後進地帯であった。 ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずるという点で、利口者の多い尾張衆とくらべてきわだって異質であった。犬のなかでもとくに三河犬が忠実なように、 人もあるじに対して忠実であり、城を守らせれば無類につ よく、戦場では退くことを知らずに戦う…三河人は、先進的な商業地帯である尾張の住民たちよりも、はるかに濃く中世的な情念を残している


ほかにも、乃木将軍を評するに「むしろ中世の家の子郎党に近い」「中世のような、自分という自然人に、自然人としての主君がいるという意識」とか描いている。


どうなんでしょうね?意見を伺えれば。

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通りすがり2

火縄銃を使用されると密集隊形で突撃するってところに普遍的な実例を出さないと、「想像で言ってるんじゃないですか?」言われるだけのような気がするがどうでしょうかね。

foolskitchen=ふるきち

こちらでは久々。
以下はあくまで個人的意見。

司馬さんは関西人であるがゆえに尾張以西の商人気質にシンパシーがあるんですよね。
そして関西政権であった豊臣家が結果的に関東政権である徳川家に敗れたことへの悔しさ・苛立ちがある。結果生まれた理屈が「連中(三河以東人)は田舎モンだから野蛮で強いのだ」であると(笑)。
実際には濃尾軍団はそんなに負けても崩れない集団であったかどうか……山崎の戦いの後の明智光秀はどうだったか、関ヶ原の後の石田三成はどうだったか。
三方ヶ原で家康を救ったのは、濃尾軍団云々というより、今川家と織田家に挟まれていたゆえの三河武士の団結心ゆえだったような気がするのですがね……(むろん武田勢が信玄の病状ゆえに先を急いでいたこともあるでしょうが)。

ちなみに近代欧州において「集団突撃への対抗」を可能にしたのは「銃剣」の発明ではなかったかと思っています。戦国日本の鉄砲隊にはなかった発想であったと思うので。