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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「風雲児たち」「銀英伝」から「辞世の歌」「最後の言葉」について色々考えた【記録する者たち】

【記録する者たち】※準タグです。これで検索すると、「記録」「資料」に関する関連記事が出てきます


風雲児たちみなもと太郎著、節目の30巻が先月発売されました。

今回は幕府の欧州訪問団の話、島津薩摩藩の上洛を目指した各種工作の話、などなどが展開されてきます。ちなみに巻末では「次の巻で生麦事件を取り上げます」と明確に予告しています。
…と言いつつ雑誌連載のほうの最新号では、やっと島津久光主導の文久の改革が始まろうというところなので、本当に31巻で生麦事件まで行き着くんだろうな、と思わないでもない(笑)

ただ雑誌の方でも、「幕末に向けて着実に進んでいるなぁ」と思わせるものがありました。
最後のコマで「彼」が登場するのです

そう会津中将こと、松平容保。王城の護衛者。

会津肥後様、
京都守護職勤めます
内裏繁昌で公家安堵、
とこ世の中ようがんしょ」・・・・・・・・・・

次号では、この作品が約40年前(笑)、保科正之以来の伏線を敷き続けてきた会津藩について語られるのでしょうかね。

新装版 王城の護衛者 (講談社文庫)

新装版 王城の護衛者 (講談社文庫)


さて、それはそれとして本題に入ります。

この最新号の中で「へー」と思ったのが、辞世の歌取り違え事件、 というのが発生したそうです。
該当箇所を紹介しますが、ここにある通り。

長州藩で一時期政治を主導しつつ、政治状況の変化によって最後には切腹することになった長井雅楽が残した、
君がため身を捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ
という辞世の歌を、坂本龍馬大村益次郎が感銘を受けたがゆえに自分の手控えに書き写していた。
そして、ふたりはともに突然の非業の死に倒れる。
遺品が整理された時、それが写しだとはわからなかったため、一時期長期の歌が坂本龍馬の歌とされたり大村益次郎の歌とされた…と言う。

面白い話ではあるが、「記録する者たち」のタグをつけて、文化の記録や伝達についての考察記事を続けている東方から見ると、そういう「記録」の挿話として…特に「辞世文化」とでも言うべき伝統が残っていたことを、改めて不思議に思うのです。

病死、刑死などの死期を悟った人、あるいはいつ何時死が訪れるかもしれないと覚悟していた人が予め自分の信条、感慨などを短い詩の形で残す。
そしてここが肝心なところだが、おそらく処刑の場合はその処刑する側の官憲も含めて、「その最後の言葉を残してやろう、伝えてやろう」という意識があり、周りの人達もその辞世を、龍馬や益次郎のように興味を持って知りたがり、かき残そうとしているようなのですね。
「○○様はお亡くなりにやられました(病死、刑死は問わぬ)」
「そうか…して、辞世の句はいかに?」
「はっ、書き写してまいりました」
と、こういうネットワーク、アーカイブがあったみたいなのね。
こんな話を聞くと「切腹は名誉の裁きだ」、というのも実感しないでもない。

大体、 死刑囚は政治犯であることもある。最後の叫びなんて、かなり剣呑なアジテーションである可能性だって高い。

http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage337.html
昔より 主(あるじ)内海(討つ身)の 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前
  作者 : 織田信孝
  解説 :
   織田信孝の辞世の句。信孝は織田信長の三男。
(略)

「現代語訳をするとこんな感じ・・・」

   この内海の野間の地は、平治の昔、主人源義朝
   家来の長田忠致の卑劣な裏切り行為によって殺された
   場所だが、長田忠致が結局非業の最期を遂げた
   ようにお前にも必ず天罰が下り「主人殺し」の報いを
   受ける日がくるだろう。古来よりそうして主君を討った
   逆臣は永くは続かん、報いを待つが良い、羽柴筑前よ。


秀吉といえば、その後も単なる落首の書き手を大捜索して厳罰を加えたり(この話、「真田丸」にも出てきたね)するほど、 言論統制も行った為政者、絶対権力者である。
もちろん十数年後に、徳川家康への「政権交代」が勃発したから、トヨトミ前政権批判のテキストはむしろ珍重された、ということもあるのだろうけど、それにしても、やはりある人物が亡くなった時に「その人の辞世の句(歌)は?」というのを皆が知りたがり、知った辞世は書き残しておこうという文化的モチベーションが日本全体に広まっていたことは間違いない。
それは今から思えばありがたい、とてもありがたい文化遺産だったと思うのであります。

もちろん、そういうものを記録に残したい、というのは人類普遍の…というのは大げさだろうけれども、かなり共通した何かだと思いたい。これは願望もこみであります。だからこそ「記録する者たち」という準タグをつくって、系統的にこれらの話を書き記してるんですけどね。

英伝9巻、回天篇より、ロイエンタールの最期の場面。

銀河英雄伝説〈9〉回天篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈9〉回天篇 (創元SF文庫)

 元帥号を剥奪された男の、黒に近いダークブラウンの 頭部が前方に傾くのを見て、ソファーに座っていた少年は、声と息をのんで立ち上がった。一瞬、腕の中で眠っている乳児をどうするか迷ったが、小さな身体をソファーに置くと、デスクに駆け寄って、わずかに動く口元に耳を寄せた。
 少年は、慌ただしく、必死になって、鼓膜を弱々しくくすぐる数語を、メモに書き留めた。ペンを持ったまま、蒼ざめた、端正な顔を見つめた。死が音もなく翼を広げて、男の上に覆いかぶさった。
  (略)
 オスカー・フォン・ロイエンタールは、死ぬにあたって、臨終のことばを遺していったが、これには多少の不整合がある。
 幼年学校の生徒で当時、彼の従卒役であったハインリッヒ・ランベルツの記録によれば、
「わが皇帝、ミッターマイヤー、勝利、死」
 というのであるが、勝利という語が問題にされる。
単に「勝利」と言ったのだという説、「皇帝ばんざい、 たとえ死すとも」と言ったという説、「ジークフリード・キルヒアイスが死んでから……」と言いかけて力つきたのだ、という説がある。当時一四歳だったランベルツは、「自分が記録したのは、意味をもつ言語だけで、意味不明の音声は記していない。他人の解釈に責任は負えない」と言い、それに関する話題に、一生、参加しなかった。

この光景は、確か旧作アニメでも映像化されていたはずだ。
偉大な将軍の最後に直面した従者が、例えば心臓マッサージとか末期の水を飲ませるとか、そういう行為より、この将軍の最後となるであろう言葉をメモ、記録することを優先させた、という挿話は、映像で見た時、ある種の違和感(常識的には最後まで救命処置が最優先だろうと)を感じつつも、「いやいや、確かに歴史の現場、偉人のそばに居合わせたと常に感じている者は、こういう行動を取るかもしれないし、またそうあるべきだろうなあ」とも考えたのだった。

最後の言葉が内容的に明確でないため論争を引き起こしたり、その当事者は沈黙を守ったり…というさらに枝葉のエピソードも含めて、こういう記述があるからこそ「銀河英雄伝説」が、凡百の類似作品を超えた、世代を超えて愛される古典となっているのかと思う次第です。


もちろん、これはナポレオンの最後の言葉がとりとめない数語の羅列で、解釈をめぐっていろいろな異伝や論考があることをモデルにしているのでしょう。

http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/dernier.html
…ナポレオンの死の瞬間にも関心が集まった。彼が死んだ時に既に島を離れていたラス=カーズらはともかく、現場に居合わせた人間はそれぞれに死の瞬間を本の中で描き出しており、ナポレオンが発したとされる「最期の言葉」にも触れている。問題は、その言葉が史料によって異なること。ナポレオンは人生最期の瞬間に何と言ったのだろうか。

 最も簡単なフレーズとして知られているのは「先頭、軍」(tête... armée...)という言葉だ。ナポレオンの主治医だったアントンマルキがこのフレーズを紹介している。

「時間は午前5時半となり、ナポレオンは引き続き意識が混濁したまま話すことも困難で、半端で不明瞭な言葉を口にしていた。その言葉の中で我々が聞きとったのは『先頭…軍』というもので、それが彼が最後に言ったことだった」
"Mémoires du docteur F. Antommarchi, Tome Second." p149

 同じ言葉は、ナポレオンの死後10日目に当たる1821年5月15日付でセント=ヘレナから出されたある手紙にも記されている。おそらく英国人が出したと思われるこの個人的な手紙には、以下のように書かれている。

「ブオナパルテが口にした最後の言葉は『先頭』――『軍』だった。彼の心の中でそれらにどのようなつながりがあったのか解明することはできない。だがそれらの言葉は、彼が死去した日の朝5時頃にはっきりと聞き取れた」
"The Edinburgh Annual Register, for 1821" July, p115