「我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てて 飢えたる犬の腹を肥やせよ」
という歌を知った。たいそうな教養ある授業とか書とかじゃなく、落語「片棒」を久しぶりに聞いたら出てきた、ってだけだが。
いや、志ん朝のには出てこない。
ぶっちゃけ、春風亭一朝のときだ。
これはyoutubeに……ないね。まあ、無いのがふつうか
いかにも厭世的というか虚無的に見えて・・・・・日本人、実際には通夜も葬式もしてお墓参りもしているような人間でさえ、いやそういう人間こそ、「こういう世の去り方、死の迎え方こそ豪華で丁寧な葬儀より本質的な弔いなのではないか?」と思わせる、そんな部分があると思う。
で、「この歌を誰が歌ったのか」だが、実証はともかく、そういうイメージを持たれてる、という人がいるそうです
一人は小野小町。
鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。モデルとしては他に檀林皇后も知られ、両人とも「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の歌の作者とされた。
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ひとりは、一休禅師と丁々発止のやり取りをしたともいわれる遊女・地獄太夫。
一休宗純が堺に赴いた時(元より地獄太夫を見に行ったとも言われる)、彼を目に止め、「山居せば深山の奥に住めよかし ここは浮世のさかい近きに」[3]と歌を送った。
(略)
これに対して一休は、「一休が身をば身ほどに思わねば 市も山家も同じ住処よ」[3]と返す。
(略)
その上で、この遊女こそかの名高き地獄太夫であると知ったことから、「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」[3]と歎賞するのである。
(略)
これを受けた太夫はさらに、「しにくる人のおちざるはなし」[3]と下の句を付けてみせるが、これは「死んで来た人は皆(地獄に)落ちる」という仏教感にかけて、「(自分のところに女遊びを)しに来る人は、みんな(自分に)落ちる」と…
(略)
この出来事を機に2人は師弟関係を結んだと言われ、有名な狂歌「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」は、一休が太夫に贈ったものとする説もある[1]。地獄太夫は「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ」という辞世を遺して早世したが、最期を看取った一休は、泉州八木郷の久米田寺に塚を建てて供養したといわれる[1]
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とくにオチはない。聞いた歌をメモ代わりにここに記しただけ。