ひとつ前の記事と同様に、たまたま知った詩をアーカイブしておこう。
だが、その前に最近話題になったまとめを…
ブクマもすごく多かった。
[B! 歴史] 「Q 鎌倉幕府や室町幕府がなぜ江戸幕府みたいに安定しなかったの?」「A.江戸幕府がおかしいんだよ」→なにが優れていたのかという知識が集まるまとめ
だいたい、挙げられている例はどれも肯定できるものなのだけど、そこにも「儒教の影響」は語られているね。
中国、朝鮮においても、朱子学などによってうまく官学化した儒教の体制安定効果は大いにあるとは思う。
ただ、「板子一枚めくると」、さまざまな過激思想、変革思想、いや革命思想・・・・・・・・も、儒学儒教は内包していること、これまた言うまでもない。
で、個人的な趣味なのだが
最近、江戸期の初期を中心とした、儒学の日本的な受容と論争の歴史が面白くてしょうがない。
何しろまだまだ、本気で学ぶとすれば新鮮な学問で、のちに作られる「それは言ってはならんのだ」的なタブーもまだ未確立。
そして、外国の確立した一流の理論を、わーい日本にあてはめてみよう……と無邪気にやったら生まれる矛盾の数々!!
これをどう解釈し、どれを強調し、どれを無視するか(笑)。
そのひとつひとつが面白いドラマなのだわ。
高校生のとき読んだ山本七平「現人神の創作者たち」を読んだ時相当面白かったが、あの当時の興味が持続再燃したという感じかな。でも、当時はところどころ足りなかった基礎知識が蓄積されたから、固有名詞の持つ意味がよりクリアになっている、というべきか。
たとえば山崎闇斎なんて、当時は知らなかったけど「天地明察」…がフィクションであっても、ちょっとキャラがクリアになるとか、そういうことでね。
……いかん、こうだらだらかいてちゃ、メインの本を紹介できねーや
江戸幕府と儒学者
林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い揖斐高 著
林家は、朱子学者・林羅山を始祖とする江戸幕府に仕えた儒官の家柄である。大坂冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件から、史書『本朝通鑑』の編纂、湯島聖堂の創建、大学頭叙任、赤穂浪士討ち入り事件への対応、そして新井白石との対立まで――。初代羅山・二代鵞峰・三代鳳岡は、歴代将軍の寵用と冷遇に翻弄されながらも、江戸期朱子学の確立に奔走した。その林家三代一五〇年の闘いと事績を描く。
林家は、ほぼ時代劇や伝奇小説における「柳生家」的な扱いをされる。まあ江戸幕府によって「正統/最高峰」とされた一方で、まがりなりにも実力主義が浸透した武道・学問の世界では「お前らが最高峰で正統とは片腹痛いわ、儂の挑戦を受けてみろ!!」な野心溢れるチャレンジャーが次々と現れる立場に立たされるのだ。
林家も、そのようにして「打倒!!御用学者・林家の学問」を狙う人々が次々と政治闘争と論争を吹っ掛ける。儒教原理主義者もいれば、神道との融合を目指すミックスド・コンフュシャニズム?の使い手もいる。より自由なリベラル系儒学者?もいる。ついでに「わしも一流の儒学者じゃ!」とひそかに自負する将軍や副将軍のお相手もせねばならない……
そんな中で林家は「お家芸」の学問をいろいろと蓄積発展させていく。
その中には「自分の仕事としては、幕府のおん為にこういう態度をとる。だが、学者としての立場はまた別にある」なんて使い分け…それも保身ということでなく、それが正しいと自負・正当化する、そんな理論も構築する。
その結晶が、御用儒家としての林家三代目・林鳳岡が、赤穂浪士を詠んだ漢詩と言うわけ。
林家の嫡流、赤穂浪士を追悼する漢詩 嘗て聞く 壮士は環去すること無く
易水 風寒く 袂を連ねていくと
炭唖 形を変じて予譲を追い
薤歌 涙を滴らせて田横を挽す
精誠 石砕けて 死すとも何ぞ悔いん
義気 水清くして 生は太(はなは)だ軽し
四十六人 斉しく刃に伏す
上天 猶ほ未だ 忠誠を察せず
・・・・・うーんどこかに漢詩の原文テキストがあるかと思ったら、無いや。
日本の漢詩って、この前頼山陽関連で調べた時も思ったけど、あるようでネット上にはほぼ存在しなかったりもする!
だからここでもこつこつ、画像も含めアーカイブ化しているんだけどね。
これ、ウィキペディアにでも追加しておくか。
追加した。
ja.wikipedia.org
その他、同書には面白い記述……家康から僧形で仕えるように命じられた林家が、それを脱却し儒家風にしたいと願う話や、徳川綱吉・水戸光圀、新井白石、徳川吉宗など、自分達が「俺流儒学」を持ってる権力者との距離感など、いろいろある。まとめて紹介したいいけど、まずはこの漢詩の紹介で。
今後、読者には受けないだろうけど、
この江戸初期の儒学をめぐる黎明期の論争、騒動…まるで「まんが道」のごとき……。
それをこのブログで広く紹介していきたい。
ついでの引用メモ(上の新書の話ではない。検索してひっかっかった)
ここに学者間に、二つの意見が生じた。一つは林|大学頭信篤《だいがくのかみのぶあつ》(|鳳岡《ほうこう》と号
す)の同情宥免論、一つは|荻生祖棟《おぎゆうそらい》(字は|茂卿《もきよう》)の有罪厳罰論である。
林|鳳岡《ほうこう》は林羅山の孫で、祖父以来儒官の筆頭たり、将軍綱吉の信任厚く、自邸内に建
てていた孔子の廟には、綱吉自ら拝礼に出かけたことがあり、後にはそれが湯島に移さ
れて、所謂湯島聖堂になったのである。それ程の間柄であるから、何か重大な問題があ
れば、いつでも諮問に応じて意見を呈し、綱吉の政道に|献替《けんたい》しているのである。彼は朱
子学派の泰斗で、学問系統は室鳩巣も同じであるから、行為そのものよりは動機に重き
をおき、大石らの復讐に対する見解も、鳩巣と同じである。彼が綱吉将軍の諮問に対し
て答えた要旨は次のようなものであった。
天下の政道は忠孝の精神を盛ならしむるを第一とする。国に忠臣あり、家に孝子
あれば、百善それから起って、善政おのずから行われる。大石以下五十人にも近い
多数の忠義者を今日出したのは、名教の盛たる証として、政道上まことに慶すべき
である。忠孝の大精神が一貫している以上、枝葉の点に多少の非難があっても、論
語にもある通り、「大徳|閑《かん》を|瞼《こ》えざれば小徳出入すとも可なり」で、深く答むるに
足らぬ。彼らは幕府に対しては毫末も不満らしい体を示さず、城地召上のさいも素
直に引渡した。彼らはただ、亡君が恨みの一刀を吉良上野介に加えんとして果さな
かったのを、臣子としてそのまま生かして置くに忍びないとし、亡主の志を継いで
襲撃したのである。親のための復讐、君のための復讐は、今日公許されているとこ
ろで、その点なんら各むべきでたいが、多人数が物々しく武装して吉良邸に討入っ
た点、御禁止の徒党を結んだとしてあるいは非難されるかも知れないが、公儀に反
抗せんがために徒党したのでなく、君の仇を復せんがために申合せたのであるから、
外形に拘泥することなくその精神を察しなければならぬ。もしかかる忠義の精神を
一貫して亡主のために尽した士を処罰する時は、忠孝御奨励の御趣旨を滅却するこ
とになり、御政道の根本が覆ってしまう。もし今直ちに無罪を宣告せられることが
差障りを来すという事なら、当分お預けのままとして、後日何かの機会に宥免せら
るべきであろう。
これが林大学頭の意見である。結局の処分法は、前回の高官連の意見と同じであるが、
これは高官連が林の意見に追随したものと見るのが至当であろう。
ところで、この林鳳岡の意見に対して、|荻生但棟《おざゆうそらい》が松平美濃守の手を経て提出した意
見は、堂々たる法理論で、これがついに将軍綱吉を動かすに至ったのである。
祖裸は美濃守に最も信任せられ、また綱吉にも知遇を得ている。その意見を、建白書
と他の文章とによって要約すると次の意味となる。これは将軍を動かしてついに「切腹
申付」を決心せしむるに至ったものであるから、やや詳記する。
大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているよう
であるが、元来、内匠頭が先ず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭
を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったの
は筋ちがいだ。内匠頭はどんな恨みがあったか知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖
先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果さなんだのである。心得ちがいと
いわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得ちがいを受け継いで上野介を殺
した、これを忠と呼ぶことができようか。しかし士たる老、生きてその主君を不義
から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめ
たのだとすれば、その志や悲しく、情に於ブ、は同情すべきも、天下の大法を犯した
罪は断じて|宥《ゆる》すべきでない。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/seishichuushinngura.txt