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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「真田丸」で関ヶ原、余裕のスル―。その前の「小山評定」をみなもと太郎、司馬遼太郎はこう描いた

基本的に、真田一族がその場に居合わせなかった場面は描かれない…という原則を提示されていたものの、それでもおもいきった描写であった。

さて、関ヶ原より前の「小山評定」は、信幸が居合わせたというエクスキューズ(史実だろうか?)で、けっこう描写されていましたね。
(それでも、あっさりといえばあっさりだったけど)


で、この前
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160904/p1


にて、三谷幸喜がリスペクトを公言するみなもと太郎史劇と、三谷ドラマを対比したら評判が良かったので、今回も「小山評定」の場面を紹介する。
潮社版2巻「関ヶ原始末記」の巻。
ここでは焦点を山内一豊に当てている。
土佐藩の「原罪」ともいうべき、郷士との対立構造を描くためには、山内家が土佐を所有するに至った経緯を知る必要がある…との趣旨で、4Pで描写している。


司馬遼太郎の「関ヶ原」ではどうだろうか。


「家康が、ついに彼の運命を決するにいたった野州小山の宿についたのは、七月二十四日のことであった。
 野州小山は、いまは栃木県小山市にある。(略)この小山は、遠いむかし、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、奥州征伐にゆくときに宿営地として使った土地である。家康は、その縁起をかついだ。 家康は、あす、この小山でひらかれる諸侯会議こそ徳川家盛衰のわかれみちであるとみていた。徳川家だけではない。
 歴史が、変転するであろう。
<あすの軍議でしくじれば、いままで積み重ねてきた策謀のかずかずは一挙にくずれさってしまう>
家康が、この上杉征伐につれてきている諸将の大半は豊臣家の諸侯である。客将であった。かれらがわざわざ兵をひきいて家康に従軍している法的根拠は、豊臣家の家老である家康の命令による。
(略)
<それをあすの軍議で一挙に私兵にしてしまうのだ>
せねば、天下はとれない。
「あす、わしは諸客将を前にして、評定のまず最初に敵につくか味方につくかを問う。はっきりと問い、敵につくならばこの場から国許に帰って戦さ支度をせよ、邪魔だてはせぬ…というつもりだ。そのつもりでいる」

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

しかし、そういいながら「仕込み」を十分にしていた…と司馬は描写している。
元気者(福島正則)に「真っ先」に発言させれば、それによって会議の方向が決まる、といった力学の応用だ。
その一方で、山内一豊は「アイデア盗んで会議で発言」したのではないか、みたいな話を書いたり…また、山内一豊が主人公の「功名が辻」とは描写がちょっと違うんだ、これが(笑)


余談ながら、この「関ヶ原」の文庫解説(新潮社)をしたのは高坂正堯で、これは日本四大文庫解説のひとつ、と…俺が勝手に言っている(笑)。この解説だけでも必読で。


会議によって日本の歴史が変わった、といえば清須会議にも劣らぬのがこの小山評定でありましょう。