この前偶然、とある雑誌(規模的にはミニコミ誌に近い)を目にする機会があった。そこでは樋口恵子氏のインタビューがあった。
樋口恵子氏といえば、ちょと前までけっこう活躍していた評論家で、また政治史では2003年、東京都知事選に出馬し石原慎太郎氏らと競ったことで名前が残っている。
wikipedia:樋口恵子
ただ、樋口氏のこのインタビューで、ちょっと驚きの話を発見した。
私は、率直にいって共産党や旧社会党の体質が、リベラルや護憲の運動を痩せさせてしまった面もある、と思います。
(略)
2003年にわたしが都知事選挙に立候補したときには、石原慎太郎さんからではなく共産党から攻撃されて、怒るというより驚愕しました。「樋口恵子は石原慎太郎と変わりない同じ穴のムジナ」「政府の審議会の委員をしていた」「介護保険法に賛成した政府の回し者」といった意味の紙爆弾を地域によっては全戸にまかれたようです。
ま、これは選挙だからしょうがない。
こちらがすごい。
旧社会党の方のおさそいで中国を訪れたことがあります。毛沢東の呼び掛け(1965年)で、簡易な医療活動をする「はだしの医者」の精度が普及したあとのことです。6カ月ほど保健衛生の研修を受けさせ、地域の医療を担当するというあり方です。私はそれをとてもいいことだと思ったので、社会党のシンパの人たちに、「中国は何といってもまだ貧しい国ですから、医者の数も足りませんので、一定の知識を受けた人を送り出せたことは良いことだと思います」と言ったら、総攻撃を受けました。「中国は貧しい国」と言ったのが良くなかったのです。日中友好をさきがけたのは社会党の功績だと思いますが、それを支える人たちは「何事も中国は日本より素晴らしい」の一辺倒で、経済水準や自由・人権を考える力がないのにびっくりでした。
(「マスコミ市民」2013年5月号)
場所が小さいから、リラックスしてけっこう率直に話したみたいだが…すごいねえ。
樋口氏の評価だって、マオ皇帝専制政治の実態から振り返って見れば、かなり礼賛のプロパガンダに属するのだが、リアルタイムではそれでも皇帝陛下への不敬であったのだ。
これが60年代、70年代には猛威を振るい、言論人やメディアを「萎縮」させ「ものいえぬ雰囲気」を作っていった…その中国の子分であるところの金王朝へも。
この前、それをちょっとまとめてみた。
中国史を無理やりマルクス主義に合わせ解釈してた時代の話〜メーメル氏のツイートから - Togetterまとめ http://togetter.com/li/882033
この事例については証拠提示と字数の関係で、画像で紹介。引用されている平川祐弘氏の文章は「西洋の衝撃と日本」という本だからそちらからも確認できましょう。
— gryphonjapan (@gryphonjapan) 2015, 10月 3
もう「中国(毛沢東)タブーがあった」という事実自体も、語り継がないと消えるな…。 pic.twitter.com/A9PnystcZN
中国史もある意味「ダイナミック」で、この文革の嵐は「四人組逮捕」という大政変によって収束の方向へ向かっていったのだが、東に位置する極東の国の「萎縮」はタイムラグがあり、だいぶ続いた。
80年代にまで尾を引く、この流れが
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