一覧にしておくと分かりやすい…というかそうしないと忘れてしまいそうなので、作っておこう。
毎日新聞は曜日ごとのコラム記事がある。「水説」は水曜日のコラム、の意。
(※全文を読むには要登録。以下同じ)
水説:「民」はどこへ=中村秀明 - 毎日新聞 http://mainichi.jp/shimen/news/20140813ddm003070060000c.html
広島と長崎の「原爆の日」の式典で、安倍晋三首相のあいさつの冒頭3段落分が、昨年とほとんど同じだったことが議論…
(略)
実は、使い回し以上に気になったことがある。違ったところ、変えた表現である。ほとんど同じだった部分の後、4段落目が微妙に違う。広島も長崎も、昨年はこうだった。
「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」
今年は違った。
「人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」
核なき世界を目指す主語が「国民」から「国」になった。「民」は消えた。
(略)
今、世界のあちこちで「民族」や「自衛」、「宗教」、「経済発展」といったもっともらしい装いをまとい、国家や組織が自己増殖しつつある。そして、個が押しつぶされそうな息苦しさが広がっている。
これに対して安倍首相がFBで反論
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=591003721023075
さて今日の毎日新聞のコラム「水説」で中村論説副委員長が長崎と広島での私の挨拶について、昨年は「私たち日本人は、唯一の戦争被爆国民であります」としていた箇所を今年は「人類史上唯一の被爆国」とした事に対し批判を展開しておられました。
何がお気に召さなかったかと言えば、安倍政権が「国民」から「国」に表現を変え「民」を消した事だそうです。
村上春樹氏まで引用し、最後に「世界のあちこちで「民族」「自衛」「宗教」「経済発展」といったもっともらしい装いをまとい、国家や組織が自己増殖しつつある。そして、個が押し潰されそうな息苦しさが広がっている」と安倍政権の方向性を強引に解いてみせておられます。事実を述べます。昨年「被爆国民」と述べた事に対して「被爆したのは日本人だけではない」との指摘があり、なるほどその通りと考え「被爆国」としました。官邸に取材して頂けたらすぐにご説明したのですが全く取材無しでした。
(後略)
それを受けた翌週のコラム
http://mainichi.jp/shimen/news/20140820ddm003070183000c.html
先週の水説「『民』はどこへ」について、安倍晋三首相が自らのフェイスブックを通じて反論した。調べたところ、在外被爆者の支援団体が、非公式な申し入れをしていたことがわかった。「原爆の被害を受けたのは日本人だけでない。当時の広島、長崎には朝鮮人らがいた」とし、昨年のあいさつの「日本人は、唯一の、戦争被爆国民」という表現を改めてほしいとの要望だった。
首相の主張は、こうした声を聞き、今年のあいさつに反映させたまでで「国家主義的な政治姿勢」をにじませたわけではないということだ。真意に思いがいたらず、先走った解釈をしたことは反省しなければならない。
ただ、こんな経緯を知ればなおのこと、なぜ普段の首相はかたくななのかと思う。
広島の「原爆の日」のあいさつについて、使い回しを批判され誠実さを疑われたのに、長崎でも改めなかった。
(略)
全国戦没者追悼式のあいさつでは、歴代首相が繰り返してきた「アジアの人々への多大な損害と苦痛」といった加害責任や「不戦の誓い」に、昨年来の批判にもかかわらず、またふれなかった。在外被爆者という決して多数ではない人たちの申し入れに「なるほどと思った」という優しさや心遣い、寛容さは、そこにはない。
「国民」を「国」に変えた理由はわかったが、使い回しの理由はわからない。(後略)
また、それを受けての浜矩子氏の寄稿
危機の真相:愛国と反戦、国民と国家 この二つの重要な関係=浜矩子 - 毎日新聞 http://mainichi.jp/shimen/news/20140816ddm005070002000c.html
(略)…「『民』はどこへ」がそのタイトルだった。広島と長崎の原爆の日に際して、安倍晋三首相が行ったあいさつについて、二つの問題を指摘していた。第一は、冒頭部分が昨年のものとほとんど同じだったこと。第二の問題は、広島でも長崎でも、昨年と大きく変わった箇所があったことだ。
第1点も実にひどい。何たる被爆者軽視。何たる見識の欠如。何たる不心得。
第2点はそれにも増して衝撃的だった。昨年は「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります」となっていたくだりが、今年は「人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には」となっている。日本人という国民が姿を消して、国家が前面に出た。
由々しき問題だと思う。国民国家において、国家は国民のために働く装置だ。主体はあくまでも国民だ。かりそめにも、国家のために国民がいるなどと考えてはならない。
ところが、原爆の日の式典という最大級に厳粛な場面で、首相のあいさつの中から国民が追い出された。代わって、国家が主体の座に座った。これは実に恐ろしいことだ。こんなことは、国民国家の政策責任者においてルール違反なのではないか。首相は「水説」への反論をフェイスブックに掲載した。「『被爆したのは日本人だけではない』との指摘があり、『被爆国』とした」と説明するが、それならば外国人被爆者への思いを付け加えればよい。国民の言葉を消す必要はない。
…いま、リンクを張って、引用していて「すっげー小さいテーマだわー」となんか萎え萎えな感じ。これで放り投げちゃえ、あとは未引用のところも実際に飛んで、読んで考えてもらおう。
ただ、昨年の時点で「日本国民」に照準をあわせて「被爆したのは日本国民だけじゃないはずだ!偏狭だ、排外的だ!!」というリクツもたしかにフツーに言えた筈で、気付かなかったのは悔しいな。
その中で「在外被爆者の支援団体」が、「非公式な申し入れ」をしていたという事実が分かったのも収穫だった。ここもいまどきのようにtwitterやFBで公開での糾弾をしていれば、みな注目が集まったのに…でも変更は無かったかもしれない。「公に問題を明らかにして大騒ぎすべきか、非公式のロビイングが効果的なのか」というのはちょっと考えさせられた。