きのう教えてもらったんですが。
■神聖ローマ、運命の日 オスマン帝国の進撃120分 - G 指定 - 人間ドラマ
http://movie.walkerplus.com/mv55384/
17世紀のヨーロッパを舞台に、イスラム教勢力のオスマン・トルコ軍がキリスト教勢力である神聖ローマ帝国支配下のウィーンを包囲した事件“第二次ウィーン包囲”を描いた歴史スペクタクル。出演は「アマデウス」のF・マーレイ・エイブラハム、「エッセンシャル・キリング」など映画監督として活躍するイエジー・スコリモフスキ。
17世紀後半、オスマン帝国はヨーロッパに勢力を拡大。大宰相カラ・ムスタファ(エンリコ・ロー・ヴェルソ)は、ウィーンからローマへと侵攻し、キリスト教の総本山サン・ピエトロ大聖堂に軍旗を掲げようと執念を燃やしていた。同じ頃、盲人の視力を回復させるなど、次々と奇跡を起こす修道士がヴェネチアにいるという噂を耳にする。その名はマルコ・ダヴィアーノ(F・マーレイ・エイブラハム)。
ムスタファは、かつて“マルコ”という名の少年の命を助けたことを思い出す。そのマルコが暮らすヴェネチアは、トルコ人の侵略で商船が寄り付かず、不況にあえいでいた。怒った若者たちはトルコ人のアブールを襲撃するが、これをマルコが仲裁。アブールと同居する聾唖の娘レーナに、神のご加護を祈るのだった。やがて、ムスタファ率いるオスマン・トルコ軍が侵攻を開始。ウィーンを訪れたマルコは、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(ピョートル・アダムチク)に、ポーランド王ヤン3世ソビェスキ(イエジー・スコリモフスキ)との軍事同盟を進言する。一度は拒まれたものの、マルコが病に侵された皇帝の妹を救ったことで、同盟は成立。
だが、籠城の準備が進む中、30万の兵を擁するトルコ軍の圧倒的軍勢を目の当たりにしたマルコは愕然とする。味方は総勢5万足らず。4万の援軍を約束したポーランド王はまだ到着しない。トルコ軍に加わり、イスラム教への改宗を求めて城外で声を張り上げるアブール。その姿を無言で見つめるマルコと、アブールを追って来たレーナ。ついにトルコ軍が攻撃を開始。激戦の最中、ポーランド軍が到着する。その夜、ムスタファはマルコと対面。“昔、アッラーがお前の命を救ったのは、明日私がお前を殺すためだ”と告げる。これにマルコは、“神が私を生かしたのは、私があなたを救い、あなたの魂を助けるためだ”と静かに応じるのだった。こうして1683年9月11日、運命の日を迎える……。
上映は今月の16日まで。
「11:15 13:45 16:15 18:45」
予告編動画はこちら。
http://movie.walkerplus.com/mv55384/trailer/
昨日その話もちょっとしたんだが、トルコを「東の文明」というのもやや無理がある。だが、それを承知であえて色分けするなら、壮麗王の異名もとったスレイマン大帝の第一次包囲(まだ日本には種子島すら伝わっていない)が失敗してから約60年後。
日本では徳川綱吉がやや強引な文治政策を採り始めたこの時代、再びハプスブルグ家の支配するウィーンを三日月の旗が取り巻いたこの戦が、最大最後の東西文明の対決であったと見なしたい。
しかも、まぁある意味これが最後の「トルコのターン」で、以降は「ずっとヨーロッパのターン」で歴史が進んでいく(乱暴なくくりだけどね)。
その前のターンを描いたのがつまり、「歴史同人女性の頂点」ともいわれる塩野七生の地中海三部作。逆にいうとこの映画は、塩野の地中海三部作からの、映像による続編だと。
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塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」堂々映画化!「征服 1453年」(ちょっと違う)・・・そして「攻城戦物語」について -
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130224/p3
そんな最後の攻防を映像化したこの映画は、たしかに見たいものだ。オスマンの軍隊は例のイエニチェリ軍楽隊が奏でる「ジェディン・デデン」に代表されるような、華麗な様式美にも彩られており、そのへんも楽しめそう。
Ceddin deden, Neslin baban! 祖先も 祖父も
Ceddin deden, Neslin baban! 祖先も 祖父も
Hep kahraman T醇вk milleti! 勇猛なるトルコよ!Ordular遵dn, pek醇Mok zaman! 汝の軍隊は幾度となく
Vermi醇~tiler d醇・yaya 醇~an! 世界にその名を轟かす!
Ordular遵dn, pek醇Mok zaman! 汝の軍隊は幾度となく
Vermi醇~tiler d醇・yaya 醇~an! 世界にその名を轟かす!2.
T醇вk milleti, T醇вk milleti! トルコ国家よ トルコ国家よ
T醇вk milleti, T醇вk milleti! トルコ国家よ トルコ国家よ
A醇~k ile sev h醇вriyeti! 汝の自由を享受せん!Kahret vatan d醇э・man遵dn遵d! 祖国の敵を打ち負かし
遵ャeksin o mel-un zilleti. 忌わしき奴等に絶望を与えん!
この映画の中では、「ウィーンを陥落させたら、次はバチカンだ。あそこへ乗り込んでいってやる」とオスマンの武人が豪語する場面もある。たしかにそういうこともありえたかもしれない。
オスマン帝国を「オスマン・トルコ」と呼ぶことの問題点について
これはあとで紹介しようと思っていたのだが、こういうテーマなのでとりあえず紹介しておくね。
オスマン帝国の呼称問題について - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/664325
オスマン帝国のことを「オスマン・トルコ」と呼ぶべきではないという風潮があるのは何故か、という質問をもらったんだけど、この風潮というか合意は最近の研究者の間ではほぼ当たり前になってるよね。理由はおおまかに二つある返信 RT お気に入り Y_b_Ayyub_bot 2014-04-25 23:54:24
一つは、オスマン帝国が「オスマン・トルコ」と自称していないということ。実はオスマン宮廷の人間や首都のオスマン人にとって、アラビア語やペルシア語を知らないアナトリアの住民は垢抜けない田舎者で、「トルコ」という語には侮蔑的な意味合いが含まれていたんだよね返信 RT お気に入り Y_b_Ayyub_bot 2014-04-26 00:00:48
マヌエル「自称の問題は我々にもあてはまる。常にローマ帝国を自認している我々にとって、首都のかつての呼称ビザンティオンに由来するビザンツ帝国という呼称は奇異なものに映る」コンスタンティノス・カラマノス「渡辺金一先生は本のタイトルに「ビザンツ」を避け『中世ローマ帝国』とつけています」返信 RT お気に入り Y_b_Ayyub_bot 2014-04-26 00:05:04
もう一つは、オスマン帝国がトルコ人の国家ではないということ。確かに王朝の父系はトルコ系で、公用語はトルコ系のオスマン語だったけど、宮廷エリートは様々な民族的出自の人がいて、トルコ系の人たちだけに独占されていたわけじゃなかった。返信 RT お気に入り Y_b_Ayyub_bot 2014-04-26 00:06:46
これはアイユーブ朝にも言えることだよね。私達はクルド人だけど、だからといって当時のエジプト・シリアを「アイユーブ・クルド」とは言わないでしょう? オスマン朝の国家を「オスマン・トルコ」と呼ぶのは、それと同じ問題があるんだ返信 RT お気に入り Y_b_Ayyub_bot 2014-04-26 00:08:53
アナトリア、イコール「トルコ」となるのはトルコ共和国の成立以後だしね返信 RT お気に入り Y_b_Ayyub_bot 2014-04-26 00:10:59
林佳世子先生は『オスマン帝国500年の平和』で「オスマン帝国は「オスマン人」というアイデンティティを後天的に獲得した人々が支配した国としかいいようがない」と書いてるけど、この本にはきっちり呼称問題について書いてあるから気になったら読んでみてね(`・ω・´)こんな感じでよかったかなバルカン、アナトリア、アラブ世界を席巻した大帝国は、多文化、多宗教を柔軟に包み込むメカニズムを生みだした。強力なスルタンのもとで、広大な地域を征服した成功のあとに続いた、大宰相を中心に官人たちが支配する長い時代。多民族の帝国が、民族の時代の到来により分裂するまでを描く。
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ちなみにこんな地味?なテーマにはてなブックマークは100以上ついていて、大いにはてな村を見直したものでした(笑)
あたしのブクマは…
歴史用語の名称をあとから変えようという議論は、その賛否は別にして、どれも聞く文には面白い。最近だと田沼意次の政策を「田沼改革」と呼ぼう、とか聞いた。/ササン朝ペルシャ、とかは自称なのかな。
僕的おすすめ書籍
西欧人の見た「残虐な征服者」は、西欧をはるかにこえる先進国だった。羊飼いでも大臣になれる開放的な社会。キリスト教世界で迫害されたユダヤ難民を受け入れた宗教的寛容性。多民族・多宗教の超大国を支えた「柔らかい専制」の秘密に迫る。オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)
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中欧に存在した不思議な「帝国」の一千年史。ドイツはじめ中欧諸国の母胎となったこの帝国は、教皇や周辺諸国、諸候と合従連衡と抗争を繰り返しながら、中世史の一極をなし続けた。見果てぬ夢「古代ローマ帝国の復興」を求め、抗争を繰り返しながらも、八百五十年間にわたり中近世ヨーロッパの中心に存在し続けた「帝国」の実像に迫る。
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そのまんまやがな。
ウィーン包囲、後日談(俗説ふくむ)
オスマン帝国が包囲を解き、撤退し、ウィーンの都は国家の独立を守った。
それを記念し、オスマンの旗印である三日月をかたどったパンが作られ、それがウィーン名物の「クロワッサン」になった…という話は面白いが俗説らしい。
詳しくはウィキペでも読め。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%AF%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3
昨日聞いた話。
オスマン軍が撤退後「黒い豆の入った大きな袋」が残された。
もちろんイスラム教国に広まっていた(イスラムにて禁じられた、お酒の代わりでもある)コーヒーの豆である。
「なんだこれ?」「無気味だな」といぶかるハプスブルグの軍人たち。
しかしそこで目ざとく、おそらく海外事情に通じたとあるウィーンの商人が…
「あ、それ捨てるんやったら、わしに払い下げてくんなはれ」
これによって、はじめてウィーンに「カフェ」が誕生した…という。面白いが何しろ聞いたばかりなので、真偽を判断とかはできん。