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「征服なき十字軍」を成し遂げた皇帝の手腕とは〜「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」(塩野七生)

この本に関しては、読む前に二回紹介していました。

皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上

皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上

皇帝フリードリッヒ二世の生涯 下

皇帝フリードリッヒ二世の生涯 下

塩野七生最新作 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上・下』。毎日新聞本村凌二が大型書評 -http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140113/p4


塩野七生「十字軍物語」スタート。毎日新聞に本格書評 - 見えない道場本舗 http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110512/p2

なんども書いたけど、塩野七生はこの上下巻の大著を出す前に、逆にごくコンパクトな短文で、この英明な君主による無血十字軍(或いは「破門十字軍」(笑))を語っていた。
この本。

サイレント・マイノリティ (新潮文庫)

サイレント・マイノリティ (新潮文庫)

今回は、ウィキペディアから再紹介しましょう。

 新皇帝となったフリードリヒ2世は聖地奪回を教皇に宣誓した。アイユーブ朝スルタンのアル・カーミルは使節シチリア島の皇帝のもとに派遣した。使節はそこでキリスト教の教会に描かれたイスラーム教徒の像や、アラビア語の刺繍の入ったマントを着るフリードリヒ2世を見て驚愕する。
 報告を受けたアル・カーミルはフリードリヒ2世に書簡を送り、ここから2人の交友が始まった。2人は十字軍に関する話題を避け、お互いが共通に興味を抱く自然科学に関する話題をアラビア語で行ったという。しかし教皇からの執拗な聖地奪回の要請を拒みきれなかったフリードリヒ2世は、武力によってではなく、アル・カーミルとの交渉によって聖地を回復した。この交渉には5ヶ月近い日々が費やされ、最終的にお互いが大きく譲歩することで和解した。

ただ、サイレント・マイノリティを読んだ印象だと、理想家肌で平和主義的なイメージを否応なく抱くのだが、その生涯を丸ごと描くとなると…実はしたたかな権力者、要所要所で果断な軍事力を行使した覇者であり、無血十字軍も「平和を求めてイスラムと和を結んだ」というより「のちに教皇勢力と対決するために、後方を固めて戦力を温存しておいた」というふうに見えるのである(笑)。


そんな、日本の中ではほぼ無名だといえる中世ヨーロッパの覇王をあえて描いた、塩野七生の長編を観てみよう。

中世ヨーロッパの王権は複雑だねえ。「○○王がXX王を兼ねる」というという話

まずフリードリッヒの父親である神聖ローマ皇帝ハインリッヒはシチリア王をかねていた。それはその妻、フリードリッヒの母がノルマン王朝の継承者だったからだそうだ。

その「シチリア王」、として同島を支配したことが、教皇勢力との軋轢を生む一方で、彼の覇道の原動力になったのだった。また息子を「ドイツ王」とすることで、勢力範囲を広げている。(その息子が、その後父と対立するのだが…)
のちには十字軍に絡んでエルサレム王国の王にもなった。
この「王を兼任する」という仕組みによって国が広がったり縮んだりして、なんともそこに違和感を感じるのだが、そこは慣れだ。


基本的に彼の生涯は「vs教皇」であった。その教皇も大物!

何しろ数回にわたって破門されており、本来なら教皇の滞在する城の前ではだしで三日三晩立って許しを請わなければいけない立場だ(笑)。
しかし、高校で一行だけ習った「教皇派(ゲルフ)」vs「皇帝派(ギベリン)」の抗争は、ようはフリードリッヒと教皇の対立によって主に展開されてたのだ。どんなふうに、本来なら破門すればそれでジエンド!のはずの教皇権威ビームにバリヤー!で対抗したのか、そのへんが読みどころであります。ローマできちんと戴冠し、神の代理人から権利を認められた皇帝が、のちには公会議をぶっつぶす挙に出る。
具体的にいうと、公会議出席予定者をその船ごと捕虜とし(メロリア海戦)、足止めしたのだよ。

その主敵はグレゴリウス九世…。「教皇は太陽、皇帝は月」のイノケンティウス三世の「甥」で(本当に甥だろうな…)、異端裁判所の創設者、としても知られる。

十字軍に消極的だとして破門したときは、
「皇帝が立ち寄り、滞在した地はミサなどを禁止する」
「皇帝領の領民は服従義務から解放され、税金や徴兵に応じなくていい」
「皇帝の十字軍を妨害し、略奪してもいい」

と布告した…並みの為政者なら、これだけで自分の国が統治不可能になり降伏するところだが、フリードリッヒはみごとに手綱を取り、十字軍は以後述べるように和平で聖地を回復。のちには教皇派の都市連合「ロンバルディア同盟」、あるいは教皇と組んだ息子らの叛乱を鎮圧する。

また、破門に関する理論的な闘争、「メディア戦争」に関してはこんな記述もある。

破門の理由として挙げられた事柄の一つ一つに反証していく反論…の写しは大量に作られ、ヨーロッパ全域の王や有力諸侯にも送られたのである。
(略)
法王グレゴリウスは、皇帝への破門を記した法王教書をイタリア中の主教会の正面扉に張らせたが、皇帝はそれへの反論を、町の主教会と向かい合う場所にあるのが常の、市庁舎の正面扉に張り出させたのである。…王侯だけでなく普通の庶民も、法王により破門文とそれへの皇帝の反論の両方を、広場を横切るだけで読めることになった。これが中世風の情報公開…
(下)P37

わはは。
そうだ、こちらを参照。この記事を書いたとき、たしか無意識のうちに念頭にあったのだな。

「もし中世にインターネットがあったら?」…ある訳無いけどさ、魔法で代用できたら? - 見えない道場本舗 (id:gryphon / @gryphonjapan) http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150321/p3

吟遊詩人とかいろいろあるけど、フリードリッヒのインターネットは、手紙の写しの有力者への大量配布と、広場での掲示だったと。

そのはるか後、ルターが「95カ条の論題」をヴィッテンベルク城内に張り出す・・・。
http://www.y-history.net/appendix/wh0903-009.html


「無血十字軍」についてもより詳しい

挿話を箇条書きに
・フリードリッヒの相手方・スルタンのアル=カミールは、サラディンの甥。信じられないだろうが、少年時代、その和平交渉と儀式に参列したカミールは、リチャード獅子心王に気に入られ、肩に剣を乗せられ「騎士に叙任」されたというのだ!!「渋川剛毅のお墨付きじゃ」の黒帯じゃないが、ライオンハートに騎士の称号を与えられたら、だれも何も異議を唱えられないわな(笑)。
それが功を奏したかどうかは分からないが、ともかくそんな太守であり、エジプトを支配する彼と、シリアを統治する弟とに緊張状態が生まれていたこともあって、うまく和平の機運が熟していた。
 
・ちなみにアル=カミールは、聖フランチェスコとも面会したことがある。良くも悪くも俗と欲にまみれた教皇とは正反対の清貧、勤勉、誠実の聖者だが、キリスト教に絶対の信仰と優位性を確信している「狂信者」であることはかわらない。和平、それもカミールがキリスト教に恭順する形での和平を訴えるこの聖者を、太守は丁寧に送り届けたという。
 
・そもそもフリードリッヒは、この遠征がイスラム圏に足を踏み入れる最初だったのに、通訳不要でアラビア語でカミール側と対話できた。シチリア王もかねていたので、そこだろうが、たぶん学問好きの教養人として必須だったから、もあろう。
 
・フリードリッヒと、カミールの使者の交渉は、チェスをしながら行われたという。ちょっとかこいいね。皇帝にはスルタン用の天幕が贈られ、スルタンには皇帝の馬衣をつけた駿馬が贈られ、詩の交換もあったという。そしてスルタンの使者ファラディンは、過去にカミールがそうされたように、神聖ローマ皇帝の名のもとに騎士に叙任された、という。
 
・和平は見事なまでに、双方の宗教界からはブーイングをくらった(笑)今でもイスラム圏で、聖地割譲という譲歩を「恥辱」とする論調は多いとか。
 
・サイレント・マイノリティでも描かれた、皇帝に遠慮して自粛されていたイスラムの祈りを促すモアズィンが、皇帝自身の勧めで自粛解除され、そこで祈りが促されると皇帝側の側近がやにわに祈りを…という名場面はここでも描かれている。
 
・皇帝はキリスト教側の城砦のネットワーク化をすすめ防衛力を高めたこともあり、和平は更新され続けた。この講和が敗れるのは、カソリックが今「聖者」として崇める、ルイ聖王の十字軍によってだった…

十字軍を率いたルイ9世は”聖王”、カソリックの正式な「聖者」でもある件。(〜宗教における見なしの自由) http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130816/p2

(もっとも、この敬虔なルイ王とフリードリッヒの関係は良好だというから人の世はフクザツです)


駆け足で行きます。「非教会法の整備(メルフィ憲章)」「欧州初の国立大学創立」

メルフィ憲章についてはウィキペディアから

wikipedia:フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)
1231年のメルフィの会議で、フリードリヒはかつてのローマ皇帝たちが施行した法令を元に編纂した『皇帝の書(リベル・アウグスタリス)』を発布する [62][63]。
都市・貴族・聖職者の権利の制限[32][64]
司法・行政の中央集権的性質の確立[64]
税制・金貨の統一[64]
上記以外に、18世紀の啓蒙思想を先取りしたとも言われる規定が存在した[65]。
貧民を対象とした無料の職業訓練・診察[65]
私刑の禁止[65]
薬価の制定[65]
役人に対する不敬・賄賂の禁止[65]


フィボナッチはフィボナッチ数列のフィボナッチでしょうね。どんな数列だったかな。まあいいや。アラビア数字をヨーロッパに導入するにもこの人の役割が大きかったとかなんとか。

wikipedia:レオナルド・フィボナッチ


算盤の書[編集]
1202年に出版された『算盤の書』の中で、フィボナッチは「インドの方法」(modus Indorum)としてアラビア数字を紹介した。この中では0から9の数字と位取り記数法が使われている。この本の中では位取り記数法の利点を、格子乗算とエジプト式除算を使い、簿記、単位の変換、利子の計算などへの応用を例にとって説明している。この本はヨーロッパの知識層へ広く受け入れられ、ヨーロッパ人の考え方そのものに大きな影響を及ぼした。
この本の中ではまた、「ウサギの出生率に関する数学的解法」などの諸問題に対する解答も記している。この解答で使用された数列が後にフィボナッチ数列として知られるようになる数列である。この数列は、インドの数学者の間では6世紀頃から知られていたが、西洋に初めて紹介したのはフィボナッチの書いた算盤の書である。

まぁ、僕とはあまりご縁が無い(笑)


ナポリ大学は1224年に創設。
「知識と教育の源泉に戻って」をうたい、聖職者ではなくほとんど世俗の人が教授陣を占める大学だった。また教会法でなく、ローマ法が教えられた。


皇帝自身も著作がある…だが、その著書は「鷹狩り必勝法」(笑)。
いや、しかし出来栄えはみごとで、これは塩野本には無いが

フリードリヒは鷹狩を趣味とし、鷹狩を主題とした最初の書籍であるDe arte venandi cum avibus[注 4]を著した。1245年のリヨン公会議で破門を受けた後もたびたび鷹狩に出かけ、本の執筆を続けていた[124]。De arte venandi cum avibusはモンゴル帝国のバトゥの宮廷にも献上され、バトゥはフリードリヒが鷹の性質を深く理解していることを称賛し、良い鷹匠になるだろうと述べた

そう、実はこの時代、イスラムだけでなくヨーロッパは東の草原をかけぬけてきた「タルタロスの軍団(タタール)」の脅威にも直面しようとしていた。



そんな時代に、神や教会に盲目的に従う事無く、したたかに、あるいは狡猾に、そして理知的に…そんな特質を武器として、欧州を統べるの世俗帝として君臨したフリードリッヒ2世。


最初に書いたように、かつて同じ塩野氏が書いた「サイレント・マイノリティ」での<善なる平和の君主>というイメージは薄れたが、それ以上に魅力的にかの人を輝かせた傑作です。
最後に、そのあんまり善良でもないが、うーむと唸ってしまう皮肉なエピソードを。
フリードリッヒのなんどめの破門だ、となる1245年のリヨン公会議で、法王庁から皇帝は「お前の配下の兵士には、サラセン人の弓兵がいるではないか」と追及される。

その皇帝側の反論
「皇帝は、血が流れないでは済まないのが戦場の現実である以上、そこで流れる血はキリスト教徒よりもイスラム教徒の血のほうがよかろう、と考えた」


ま、こんな人で「聖人君主」ではないが、そんな人だからそのサラセン人と和平を結べたのだろう。そんな歴史の皮肉です。
(了)
http://www.shinchosha.co.jp/blog/special/309637.html