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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 報道、記録、文化のために

「バヤズィトの元を訪れるティムール」という絵画があり、スタニスラウ・チュレボウスという画家が1878年に描いたらしい、という事は分かったが

フハッ!と、水木しげる調におどろいた。



ちょっと驚きの絵なので、いろんな単語で検索したらウィキペディアのティムールの項に挿絵状に紹介されている、とわかった。

バヤズィト1世の元を訪れるティムール、という絵

バヤズィトの元を訪れるティムール(1878年のスタニスラウ・チュレボウスキによる画)


アンカラの闘い」だ。

この時代でも一国レベルを率いる王と王が戦場で直接対決して、片方の王が片方の王を捕虜にする、なんて会戦はまれでありましょう。
だから特筆されている。

1402年にティムールはグルジア南部に進み(ティムールのグルジア侵攻(英語版))、バヤズィトに降伏を迫った。ティムールはオスマン帝国との戦いに先立ってイスラム教徒の支持を取り付けるためにバヤズィトを誹謗する流言を流し、その上でエルズルムを攻略した。バヤズィトの元から降伏を拒む書簡が届けられるとティムールは使者を追い返し、アンカラに向かった。1402年7月20日アンカラの戦いでティムールは勝利、ティムール軍はバヤズィトと彼の皇子ムーサーを捕虜とした。捕虜となったバヤズィトがティムールの元に連行された時、ティムールは王子シャー・ルフとチェスを指していたと伝えられている[178]。この時にアンカラに滞在していたカスティーリャ王国の使者はティムールの勝利を祝福し、ティムールは帰国する使者に書簡と進物を携えた返礼の使者を随伴させた[179]。また、ヨーロッパのキリスト教国のほかに、マムルーク朝からも勝利を祝福する使者が送られた[180]。



ティムールが捕虜としたバヤズィトを檻の中に閉じ込めて侮辱した伝説は有名であるが、これはアラブシャーの記録から生じた誤解であり[7]、実際にはティムールは捕虜としたバヤズィトを丁重に扱った[177][181]。1403年3月8日(もしくは9日)、バヤズィトは拘留中に没する。バヤズィトが没した時、ティムールは彼の死を悲しんで涙を流したという[182]。
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バヤズィト1世目線でいうとこんな歴史

東方に大帝国を打ち立てたティムールがアナトリアに現れると、オスマン帝国を取り巻く情勢は一変する。1393年ごろにティムール朝オスマン帝国接触が始まり[28]、当初ティムールからは両国の間に領域を策定しようという丁重な文面の書簡が送られたが[29]、バヤズィトは好意的な反応を示さなかった[30]。ムラト1世とバヤズィトに滅ぼされたベイリクの君主たちはティムールに助けを求め、彼の力を借りて勢力を再建しようとしていた[31][32]。一方、ティムールに放逐された黒羊朝の君主カラ・ユースフ(英語版)はバヤズィトに保護され、彼の力を借りて勢力を再建しようとしていた。そのためにオスマンとティムールの両国関係は険悪なものとなり[33]、ついに激突した。
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戦い自体はこんな展開
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でね、これは俺の曖昧な記憶だが・・・・・高校の世界史教科書に、アンカラの戦いもティムールも載ってたんよ。それは別におかしくない。
ただ…俺の記憶に依るが、この教科書のこの記述に小さな注釈があり、「戦いの後、ティムールは捕虜となったバヤズィトに会ったが、彼は片目であり、ティムールは片足が悪かった。その両者が会ったことを、ティムールは『アラーも皮肉なことをなさる』と語った」という、面白いけど実に枝葉の講談的エピソードが載ってた!!と記憶してる。覚えているからあったんだろうと思うが、参考資料(参考書)とか資料集ってこともあるのかな・・・・・
絵で見ると、バヤズィトが隻眼かはわからないが、ティムールは杖をついているね。

 バヤジット(またはバヤズィット、バヤズィト)1世はオスマン帝国の第4代スルタン(在位1389~1402年)。父のムラト1世がコソヴォの戦いの際にセルビア貴族に暗殺された後、その後継者となった。またイェニチェリ軍団を編成し、常備軍を整備し強力な君主権を創りだした。彼は片目がつぶれていたとも、やぶ睨みだったとも伝えられているが、イルドリム(ユルドゥルムとも。電光、雷帝などの意味)とあだ名されるほど迅速に行動する軍事的な天才だった。<三橋冨治男『トルコの歴史』1964 復刻紀伊国屋新書 p.113>
www.y-history.net

あとで調べる機会もあるだろう。


ま、そんなドラマチックな話で覚えているが、こういう歴史の劇的な場面を描く絵画というのももちろんたくさんあるし、写真の無い頃は貴重な資料だ。
そのうちのひとつとして、ここに記録しておく。

追記 ブクマで話題の「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャ・コサック」については3月に記事にしました

小泉悠氏がウクライナ戦争に絡んで紹介してたんです
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