昨日の「朝まで生テレビ」
よくも悪くも淡々と論じられていた。途中で疲れちゃったけど。
http://www.tv-asahi.co.jp/ch/fujikofujio_a/
ところで、この議論の中で辻元清美氏だったかな、古市憲寿氏だったかな「世の中の価値観はさまざまであるので、国があれがいい、これがいいというスタンダードを決めてはいけない」「道徳に書かれたことを政治家が実践してるのか」という立場から、道徳教育強化などを批判していた。
自分も、基本的に「国家が、他者危害の原則など以外に基づいた真善美、善悪を定めることが出来るのか?」という疑いを持っていて、その点では道徳教育というものへの疑念、限界意識というのは多めに持っている。その点では辻元氏や古市氏に賛成だ。
だが、それで思い出したことがある。
これは共同通信の記者(山田博編集委員)が…切抜きに日付無くて申し訳ないが、たぶん内容的には第一次安倍晋三政権(2006-2007)の教育基本法改正に絡んだものだから、時期もそのへんだろう。
……特定の理念を強制力のある法に盛り込むのは、個人の内心の自由を原則とする民主主義社会では慎重でなければならないのに、あまりに簡単にそのハードルを飛び越えたとの印象が否めない。
6年前、教育基本法改正論議の先鞭をつけた教育改革国民会議でこんなやりとりがあった。
委員のグレゴリー・クラークさん(当時多摩大学長)が「民主主義国として、基本法はちょっとおかしいですよ、国が命令すべきでないですよ」と発言、これに柔道五輪金メダリストの山下泰裕東海大教授が「教育の理念にかかわる問題を法律に規定することはおかしい」と同調した。
実は制定時の帝国議会でも「良心の独立…と接触する問題が生じる」と政府が答弁するなど、憲法との関係で微妙な問題があると認識されていた。
現行基本法が理念を法定したのは、教育勅語が敗戦で力を失う中で、混乱を収めるやむ得ない措置であったことを思い出す必要がある。
戦前の教育勅語体制のもとで国民の義務とされた教育は、新憲法で国民の権利へ180度転換した。「個人の尊厳」「真理と平和を希求」などの現行基本法の理念は、憲法的価値と直接連動している。
注目すべきは基本法の性格だ。制定後の文部省訓令で「真にこれを生かすものは、教育者自身の自覚である」(基本法制定の要旨)とされたように、国民に義務を説いた勅語に対し、基本法は主に国や自治体、教育者に対し教育はかくあるべしと注文をつけたものだ。 教育理念の法定と憲法の定めた内心の自由とのぎりぎりの接点を探った苦心の跡がうかがえる…(後略)
この後半では、だから安倍政権(第一次)の教育基本法改革案はよくない、という趣旨が展開されるのだが、それより、旧教育基本法の時点で「価値判断を法で決めている」「内心の自由や良心の独立と抵触する」との指摘があった、というほうが個人的には興味を惹かれるはなしだ。
自分は国会議事録の検索は苦手なのであきらめるが、この議論も探せば帝国議会の議事録に残っているだろう。
さて、古いほうの教育基本法、前文や1条、2条を見てみよう。
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の方針)
第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
ここに「国家による道徳の一方的価値判断」があるか、ないか。
あるとしたら、或いは無いとしたら、それは肯定的に捉えるべきか、否定的に捉えるべきか。
改正条文はこちら。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html
ここに、現在改正された条文と旧条文の比較表があった。
http://www4.ocn.ne.jp/~kumiai/constitution/kihon_hikaku.html