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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

日本の「お産」はなぜ、経験則から衛生的な環境を整えられなかったのか?

これもtwitterからです。

Female Trouble@百合の迷宮 ‏@yuri_no_meikyu 12時間
平安時代の女性の平均寿命の短さは主に産褥のせいなんだが、どうしてこの時代にそれまでの出産に関わる経験則が断絶したのかはよくわからない。清少納言さん最愛の定子さまも二人目の出産の産褥で若くして亡くなってるし。
 
平安時代の女性の産褥死の原因は、出産の血の穢れを忌みすぎて、寒かろうが暑かろうが妊婦を別棟に隔離し、悪霊払いの儀式だけ必死にやるのに医者も産婆もつけず、産んだ後も消毒どころか清拭すらせずほったらかして感染症にガンガン罹ったせい。なのに産まれた子供が一族の繁栄を左右する摂関政治。謎

gryphonjapan ‏@gryphonjapan 7時間
「血の穢れ」は一種の宗教概念だから、宗教は一種過激化、純粋化していくのも道理かもしれません。経験則の仮説で「まてよ、出産措置が清潔だと死亡率下がるんじゃね?」に気づくのはヨーロッパでも19世紀後半、ゼンメルワイスの発見以降ですよね
 
日本神道的な穢れ、清めの概念は結果的に、理由も分からないまま衛生を保った。その一方で出産や月経の「血の穢れ」概念は、「出産は隅の部屋、納屋でやるもの」的な慣習を生み、産褥を増やす…皮肉な話だが、宗教概念を経験則で変化させるのは難しいかも。 @yuri_no_meikyu
 
星新一が華岡流の麻酔手術の資料を調べ「あれ?消毒概念が西洋で発見される前から傷口を焼酎で洗っている?」と驚いた、という随筆あったっけ。

たぶん傷を酒で洗う、は宗教タブー関係ないから経験則が広まったが、「お産は穢れ」は宗教だから変革できなかった… @yuri_no_meikyu

自分の「出産の穢れは宗教概念だから、経験則で『こっちのほうがいいかも』とおいそれと変更できなかったんじゃないか?」というのはだれかが文献で言ってる、とかじゃなく、当方の仮説です。


最後の星新一のエッセイが…というのは「きまぐれ暦」です
ほんとのテーマからだいぶそれた雑談だけど、ここで少し触れてます

大麻の鎮痛作用に迫る
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20070412/p1

こういうリンクも見つけました

http://ameblo.jp/big108/entry-11763320903.html

司馬遼太郎の『燃えよ剣』の中に土方歳三が、斬り合いで受けた傷を焼酎で洗う場面が出てくる。自分の傷を自分で洗う―いかにもこの男らしい行動である。まるで、怪我の治療ぐらいできなくては〔喧嘩師〕を名乗る資格はないと言わんばかりである。
文中「当時は、どの家にも傷手当の用意に焼酎は用意されていた」と、ある。ウイルスの存在は知らなくても〔傷口を清潔にする―アルコールで消毒する〕という感覚を日本人は持っていたのだ。
『ショウチュウのなぞ』は、焼酎と医療の歴史的関係を題材にした随筆である。SF三巨星の一人。ショートショート作家の代表格として活躍した星新一は、知的エッセイの名手でもあった。特に『ショウチュウ』は傑作の部類に属する。何度読み返したかわからないし、何度でも読みたくなる完成度を誇っている。星先生は『ショウチュウ』を通じて、文章の素材というものは〔日常の中にいくらでも転がっている…〕ことを教えてくれた。同時に〔調べる楽しさ〕を教えてくれたのもこの随筆である。

きまぐれ暦 (新潮文庫 ほ 4-19)

きまぐれ暦 (新潮文庫 ほ 4-19)

日本では、お産を「穢れ」と考える宗教概念があるから、出産が不衛生な環境になってしまう…というのは、みなもと太郎風雲児たち」で、シーボルトの娘イネが産科医の道を選ぶとき、師匠の口を遠して語られている。何巻だっけ?幕末編じゃなくてワイド版だよね??
(※追記 一番下に紹介しました。「幕末編の1巻」でした)


そして消毒については、「まんが医学の歴史」に多くを学んだ…いま見つからなくて(またか!)コマ画像を紹介できないのが残念でならない。

まんが医学の歴史

まんが医学の歴史

医者が手を洗えば、患者の死亡率が下がる、ということを発見した人は、非常にかわいそうなことになったんだよ…「まんが医学の歴史」がないので、ネット上の伝記から引用

感染制御の父 イグナッツ・ゼンメルワイス
http://www.bdj.co.jp/safety/articles/ignazzo/1f3pro00000sihs4.html

公衆衛生の重要性を発見
 ゼンメルワイスが産褥熱の原因について調べ始めたのは、ウイーン総合病院にいる時でした。しかしそこでは、産褥熱は予防不可能な病気であると信じる上司の反対にあいました。1846年7月、ゼンメルワイスは、第一産科クリニックの名目上の医科長になりました。その頃、第一クリニックの産褥熱による死亡率は13.10%でした。しかし当時、第二産科クリニックの死亡率はわずか2.03%だったのです。……両クリニックにおける死亡率の統計学的研究を始めたのです……その結果、彼が解剖室から出てきた医師や学生たちは、感染性の粒子を手に付着させたまま第一クリニックの患者を検診していることを突き止めました。ちなみに当時はまだ病原菌の存在は知られておらず、ゼンメルワイスは、まだ知られていない「死体粒子」が産褥熱を引き起こしていると考えたのです。そこで解剖室から検診に向かう医師たちに、さらし粉溶液で手を消毒することを義務づけ、それにより死亡率はそれまでの12.24%から2.38%へと激減し、第二クリニックとほぼ同様のレベルになったのです。

▲ top
医学界の権威により否定
 こうした輝かしい結果にもかかわらず、ゼンメルワイスは自らの研究成果をウイーン医学界に報告するのを拒み、また論文として発表することにも消極的でした。そこでヘブラがゼンメルワイスに代わって2本の論文を書きました。それを読んだ外国の医師やウイーン学派の一部の人間は、この発見に大いに感銘を受けたのですが、幅広い支持は受けられませんでした。
(略)
ゼンメルワイスの発見が真実だとしても、彼のアドバイスにあるように、妊婦を診断する前に毎回手を洗うことは、面倒過ぎると反論されました。また医師たちも自分たちが多くの死を引き起こしていることを認めようとしませんでした。それどころか彼らは、自分たちの職業はきわめて神聖であり、したがって手が汚れているということはあり得ないと主張していたのです。

1861年ゼンメルワイスは、自らの発見を「DieAetiologie,der Begriff und die Prophylaxis des Kindbettfiebers(産褥熱の病因、概念、及び予防法)」という本として上梓しました。しかし、国外での書評はどれも否定的なものばかりで、ゼンメルワイスはそうした批判に対し、1861年から1862年の公開書簡の中で、激しく反論しました。とくにドイツで開かれた医学系の学会では、彼の学説は講演者にことごとく否定されました。医学界の権威がゼンメルワイスの発見を認めなかったために、何千人もの若い妊婦が命を落としました(略)

▲ 神経衰弱と死
 1865年7月、ゼンメルワイスは神経衰弱と思われる症状に苦しんでいました。現代の歴史研究家の中には、これはアルツハイマー病または老人性痴呆だと言う人もいます。ゼンメルワイスは、親族や友人によって半ば強制的にウイーンに連れていかれた後、Niederostereichische Landesirrenanstalt in Wien Doblingという精神病院に入院し、2週間後に帰らぬ人となったのです
(後略)

来年、ゼンメルワイスは没150年なんだね、再度の顕彰を願いたい。

追記 twitterでまとめた

昔の出産の「穢れ」意識が産んだ産褥被害 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/633880

まんが医学の歴史は相変わらず見つからないが、「風雲児たち」該当部分は見つかった。


風雲児たち 幕末編1 (SPコミックス)

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