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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

インドの仏教徒「お清めの手水場」に『仏教に穢れ概念なんてない!』と怒る。さて、これは…?


そう、文化相対主義で考えれば、穢れ概念を否定するインドの仏教も、おそらくは土着の浸透的穢れ概念と融合した末に、入り口にお清めの手水場を置き、参拝者は手を洗う日本仏教も等価であります。そして、一方的に、「それは間違っている」と、そういう概念や儀礼を尊重せず、無視していいかどうか。女性のみが髪を隠さねばならないという、或る宗教の教義を信じない日本人は多いだろうけど、そのモス…宗教施設に、「そんなのは迷信よ」とスカーフをまかず、ノースリーブで行くのは正しいかどうか。

仏僧が、肉を食って酒を飲むとは何事か!とインドの仏教徒に怒られたら、多くの日本仏教がアレでアレする。
日本すし職人が、海外の『間違った』寿司に喝!!みたいなのは、しょっちゅう批判的にはてな界隈では言及されているではないか……


そして、どっちがどっちに合わせるべきかといえば、やはり「訪れた側」が「迎える側」の流儀に従うのが正しいあり方である。
ゆえに、このインド仏教徒のような「排外主義」は困りものであります。


・・・・・・・で、おさまるわけはない。

宗教論争、宗論というのは、(主観的には)やはりどちらが正でどちらが誤かを、明らかにするために行うものであり、当人にとっては譲れないものでありましょう。
その宗教的信念は、ホームなら主張するが、アウェイならその主張をひっこめる…ものではない。
それはシーア派の「タキーヤ(信仰隠し)」みたいなのが例外的なのだろう。

http://japaneoworld.blogspot.jp/2015/04/blog-post_47.html

……タキーヤというのは、信仰により殺害など、害を加えられる恐れがある時に自分の身(命)や同信者などを守る為にその信仰を意図的に隠す行為をいいます。

具体的に言うと、例えば私たちムスリムが誰かに反イスラムや敵にあたる人間に捕まって偶像を讃えたり反イスラムなことをしてしまったりしたとしても、心の中には確かにアッラーへの信仰があり、命を守る為、あるいは恐怖心か出た行為ならば許される、
学校などでムスリムであることでいじめっ子に囲まれ、脅しなどからアッラーに背く行為をしてしまったとしても信仰がきちんとあるならば、心の中を全て御存知のアッラーは許される、
或いは私がシーアであることでアンチシーアにボコられるかも!(日本ではまずないですが)最悪死ぬかも!なんていう時にスンナ派のふりをしてもOK、というのがタキーヤです。

寿司だって「てやんでえ、カリフォルニア巻きなんて寿司でもなんでもねぇ、妖怪スシモドキじゃねえか!」という意見も、「カリフォルニア巻きおいしいデスヨ!すでに極東のローカルカルチャーは、アメリカによってグローバル文明に昇華されマシタネHAHAHA」という意見も、お互いに譲れるもんじゃなかろう。




で、結果的には、この問題は、まあそのなんだ、「解決不能」です。それで、たぶんおしまい。
葬式には、仏式でも相変わらず「清めの塩」が置かれるでしょう。

宗論は どちら負けても 釈迦の恥

神道イスラムの「清め」の儀式は偶然、ゼンメルワイズに先んじる効果が



http://www.ahmadiyya.jp/?page_id=49
ウドゥー(手水)
礼拝にあたっては、まず、礼拝する所と礼拝者が清潔でなければなりません。イスラム教では礼拝の前に手や口などを清めることをウドゥーといい、やり方は次の通りです。

ウドゥーのやり方

手を洗う(3回)
口に水を含みすすぐ(3回)
鼻の穴に水をいれそそぐ(3回)
顔を洗う(3回)
手首からひじまで、左右の順に洗う(3回)
手をぬらし額からうしろの方向に髪をさわる。続いて、人差し指で耳の穴をさわる。
足を洗う(足くびまで3回)

ウドゥーのあと靴下をはいたときは、7に関しては24時間以内(旅行中は3日間)は、ぬれた手で足をさわるだけでよい)

今年は「消毒の父」ゼンメルワイス没150年。大発見が報われなかった悲劇の医師に花束を。 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150331/p1