「あとでブログに紹介したいけどそのうち」フォルダを、上の熱田神宮の写真さがしのついでに見ていたら、数週間前の写真を見つけた。
偶然だけど、上とテーマ的にちょっとつながらなくもないので紹介する。
(たぶん「毎日新聞」2012年6月末ごろに掲載の回。)
この前半は「父の日だけど、うちには父親がいない(故人)ので、よそのお父さんをテキトーに借りてもてなす」という半分ギャグだがしみじみさせる話。
その文脈および、「ここ私の ”お寺” にする」という発言から考えても、ここに登場するタイのおばさんが、多く同国の人の信仰の対象にしている仏教を棄教し、神道の徒になった、と考える必要はないだろう。
彼女はおそらく勝手に、近所の天満宮を通じて仏様に祈っている。
それで、いいのである。
・・・と、ある意味彼女のようなかたのために論じたのが、
■宗教における「見なしの自由」を擁護する…彼の為でなく、我が為でもなく。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111109/p3
なのです。
もちろん「真の仏教徒が天満宮を拝むとはなにごとか!!仏の慈悲はこんなところには及ばぬ」
という人もいるかもしれない。
「テキトーにどれかおがんどきゃいい、とはとんでもない暴言、冒涜の言葉だ!」
という人もいるかもしれない。
あるいは、思想的な苦闘を重ねて本地垂迹を否定し、神道と仏教を分離しようとした歴史を重んじる人から「神社で拝む以上、あなたは仏教徒ではないとみなします」
という人もいるかもしれない。
逆に思想的に神仏融合を肯定し、あるいは神道は民俗であって宗教にあらず、と論じ
「いやいやあなたのあり方こそ正しいんです、大歓迎です」という人もいるかもしれない。
みんなちがって、みんないい。
「賢者ナータンと子どもたち」を再紹介
判事はいいました。
「私はあなたがたに、裁決ではなく、忠告を与えよう。ものごとをあるがままに受け取りなさい。それぞれが、自分こそ本物の指輪を持っていると信じるのだ。…(略)その愛情に感謝し、各自の指輪が本物であることを証明するように努めなさい。心穏やかに、我慢強く、神さまに気に入られる良き仕事に精を出しなさい。私は千年のちにあなたがたをこの判事席の前に紹介しよう。そのときには、たぶん、この椅子には誰よりも賢明な判事が座っているだろう」
(「賢者ナータンと子どもたち」201P)
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さらに付記
「見なしの自由」理解に役立つ非常に適切な一例であるので、2013年のこの記事にTBを張らせていただく。
靖国神社という霊言機関
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20131024/1382626838