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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「遊んでもらうのが人形の供養。だからお化け屋敷に置きます」…某神社の主張こそ「宗教における見なしの自由」を証明してる。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161021-00105327-diamond-bus_all

神社に供養のためにおさめられた日本人形を借り受け、お化け屋敷をつくったユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が、日本人形協会から猛抗議を受け、ネットでも炎上している…(略)18日、人形メーカーなど全国約400社が加盟する日本人形協会が、USJに対して抗議文を送付したと発表した。

 問題とされたのは、人形供養で知られる和歌山県淡嶋神社から借り受けた、600体以上の日本人形を用いた迷路型お化け屋敷「祟(TATARI)〜生き人形の呪い〜」だ。USJのみならず、淡嶋神社も抗議文送付の対象となった。

 日本人形協会の「日本人形を呪いや祟りといった恐怖の対象として扱っており、メーカーや小売業者への営業妨害になる」と・・・・(略)

淡嶋神社の前田光穂宮司の以下のようなコメントが掲載されている。

 「人形は人に見てもらい、遊んでもらうために生まれてきており、多くの方々に遊んでもらうことは、人形たちにとっても良い供養になるのです」

 そんなの人形貸し出しを正当化するための苦しい言い訳でしょ、と斜に構えた見方をする方もいるかもしれないが、そんなことはない。前田宮司はそのような考えをかねてから「実践」されているのだ。

 たとえば、2000年からはNPO法人と協力して、およそ年間3000体のぬいぐるみを、《恵まれない外国の子供たちにプレゼントする新しい形の「供養」》(毎日新聞2003年3月10日)を始めた。これも「遊んでもらってこそ人形は幸せ」という信念によるものだ。

わははは。
当方、こうブクマをつけました。

http://b.hatena.ne.jp/entry/305143558/comment/gryphon

大いに面白いのは神社の見解。「人形は遊んで貰うのが供養だから、お化け屋敷に行くと喜ぶ」との主張は突き詰めれば神学であり、神学的に否定するしかない。そして神学とは究極的には「言ったもん勝ち」なのだ(笑)


わたし、きのうや今日の考察で、今回の騒動にこうコメントしたわけじゃござんせん。


【基調論文】
■宗教における「見なしの自由」を擁護する…彼の為でなく、我が為でもなく。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111109/p3

関連
■宗教における「見なしの自由」とはこれです。→西原理恵子毎日かあさん」よりhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120726/p5
靖国参拝−−平和を呼ぶ「サイキック・ウォーズ」? - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20050813/p3
■十字軍を率いたルイ9世は”聖王”、カソリックの正式な「聖者」でもある件。(〜宗教における見なしの自由)http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130816/p2
■誰が「英霊」でも、誰の「霊言」でも、誰が「アッラー」と呼ぼうと…これぞ「見なしの自由」http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20131026/p2
■これに違和感あるでしょ? 『?』でしょ?…それが「宗教における見なしの自由」ですよ。http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20131024/p3
■「ご神体の霊言」(笑)…「霊が、引っ越してきたよと言ったんだ!」と言い張りゃ、言ったもん勝ちかも。 http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140814/p4
■言ったもん勝ち!後付け設定!神道を巡るおかしな興亡史…「吉田神道の四百年」 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150805/p2
■「幸福の科学」教祖と妻の民事訴訟は、お互いどんな言い分があるのか(「霊言」をだれが裁くのか)?〜訴状から - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20121110/p5
■「宗教における見なしの自由」再論―池口恵観の寺では「金日成主席観世音菩薩」がまつられる。 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130327/p3


基調論文から。

私の言うところの「証明不可能・相互無視」「『見なし』の権利」というのを、実はインターネットのジャーゴンであますところなく(いや、あますところはあるが(笑))表現した流行語がある。
それはひとつは
「〇〇は俺の嫁
であり、
もうひとつは・・・

ともに元ネタをぞんじあげておりませんが、いや笑ってはいけない。
・宗教的な「見なし」の権利、
・「証明不可能・相互無視」
というふたつの原則について語るとき、このネット流行語はたいへん有用ですヨ?


今回の一件も、「宗教には「見なしの自由」がある」「突き詰めれば言ったもんがちだ」という私の持論を補強してくれる証拠として、こうやって採録しておきます。