本当は昨日からの流れで法律、法哲学の問題をいろいろと書きたかったのだが、上のエントリにあるようにやむを得ない理由(笑)でそれは省略したい。
新聞では、うちは好きだったんだけど数年前までほとんど注目されなかった「議会運営のルール」話が、ねじれ国会だ問責決議だで注目されていったのに興味があった。
「参院の権限が強すぎる」ということが問題視され、どの新聞だったかな、政党間で協定を結ぶこと(=議会運営の慣習化)でそれを解決しようという意見もあった。
カフカ『虫』を日本国憲法風に
せっかく(昨日が)憲法記念日なのでね。早朝書くタイプなのでその時差は許されよ。
有名な、というか伝説の・・・というべきか、「文体模写」シリーズです
http://www2.ocn.ne.jp/~gimura/zamza.htm
原文はこれです。↓カフカの「変身」ですね。
「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドの中で自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。固い甲殻の背中を下にして、仰向けになっていて、ちょっとばかり頭をもたげると、まるくふくらんだ、褐色の、弓形の固い節で分け目をいれられた腹部が見えた。」
(その2)から。
http://www2.ocn.ne.jp/~gimura/zamza2.htm
日本国憲法第一章
第一章 ザムザ
第一条 ザムザは、プラハの青年であり不安な夢を見たあとであつて、この不安は、主体の存するザムザの内心に基く。
第二条 ザムザは、人間であつたが、視界の認識した図像の認めるところにより、これを毒虫化する。
第三条 ザムザの自己認識に関するすべての行為には、家族の助言と承認を得られず、ザムザのみが、その不安を負ふ。
第四条 ザムザは、毒虫としてなしえる行為のみを行ひ、人間に属する表現権能を有しない。
2 ザムザは、作者の定めるところにより、その内心に関する吐露を作者に委任することができる。第五条 視野に見える領域の定めるところにより、前屈をするときは、ザムザは、固い甲殻を下にしてその前屈に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
第六条 ザムザは、仰向けの姿勢に基いて、毒虫化状態を確認する。
2 ザムザは、仰向けの姿勢に基いて、ちょっとばかり頭をもたげる。第七条 ザムザは、自らの視野確認と認識により、自らの体に、左の毒虫に関する状態が存在していることの確認を行ふ。
一 不安、夢、寝覚めを認識すること。
二 ベッドの中にいること。
三 仰向けに寝ていること。
四 とてつもなく大きな毒虫であることを認識すること。
五 固い及び下になっているその他の性質を有する背中の状態を認証すること。
六 少しばかり頭をもたげてみること。
七 腹部を見ること。
八 腹部が弓形及び固い節その他の分裂状態にあることを認証すること。
九 腹部の節の色が褐色であること。
十 節は膨らんでいること。第八条 ザムザがベッドから出て行動し、又はザムザが、家族と接し、若しくは接することを拒否されることは、ザムザの外見に基かなければならない。
逆に、日本国憲法(の前文)なんかはどこでも手に入るから、「○○風日本国憲法」もいいかもな。あ、清水義範とかがやってたっけ。
名古屋弁あり、落語風あり!パスティーシュの先達・巨匠・第一人者が、憲法を素材にあらゆる技法、全ての手段、全知全能を傾けて翻訳。
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「日本の読者は智恵と言葉を基調とする笑いを誠実に希求し、笑いによる慰撫又は笑いの行使は、悩みを解決する手段として永久にこれを保持する。前項の目的を達するため、立ち読みは、これを認めない。」パスティーシュの奇才が、真面目に考え、不真面目に書いた、傑作・快作・自信作。
自分もテキトーに。
司馬遼太郎風 日本国憲法
選挙が、ある。
これによって、たれもが、代表者となりえる。
彼らが動くことで、他国とのよしみを通じ、自国は安らかになる。また、いくさを避ける。
以上のことは、生肉を素手でわしづかみにして、むしりとるような荒々しいリアリズムであるようでもあり、きらびやかに飾られた、壮麗なる空虚にも感じられる。
ただ、多少の奇妙さはある。
当時の言葉でいえば、天下はまだうぶく、ふたたび乱を避けることを民はのぞんでいた、といっていい。
以下は余談である。
「国政は、国民が厳粛に信託にしたものである」という。いわば政治はかりものであり、それは民から借り受けたとの思想である。
これは、天に絵を描くような、とほうもないおもいつきだった。(略)
涼宮ハルヒ流 日本国憲法
明治憲法を昭和20年まで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが、それでも俺がいつまで憲法という想像上の最高規範を信じていたかと言うとこれは確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。
大正時代に議会で詔勅をめ丸めて望遠鏡代わりにしていた元首は単なる「玉」だと理解していたし、記憶をたどると周囲にいた青年将校たちもあれが本物だとは思っていないような目つきで大元帥陛下を眺めていたように思う。
そんなこんなでマッカーサーが並んでいるところを目撃したわけでもないのに8月15日のラジオでしか発言ををしない現人神のの存在を疑っていた賢しい俺なのだが、この国の最高法規も実質上はこの世に存在しないのだということに気付いたのは相当後になってからだった。
(略)
「ただの憲法には興味ありません。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義がいたらケーディスのところに来なさい。以上」
・・・うーーんせいぜい内野安打だな。文体模写は、まず「これは!」と思いついてから書くべきで、お題を先に考え付いてもあまりホームランは打てないや。
あとは司馬遼太郎は読み込みすぎ、涼宮ハルヒは一度読んだとはいえ慣れてなさすぎで両極端すぎた。