INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「FEG非常事態取材班」を設置しました

どこに?
それはわたしの、こころの中に(笑)。
いや実際、そういう取材班を作りたいところではあるんだけど、事情を知っている内部関係者と話せるような人脈ねぇし(笑)。
できるのはインテリジェンスの常道としての、公開情報の収集・整理と分析だけです。 でも、取材班への参加は自由ですので希望者はどうぞ。

まずはNHBニュースとダブルポストです

http://blog.livedoor.jp/nhbnews/ とのダブルポスト。

【メディア / 書籍 /DVD 】 kamipro ツイキャスFEG の今後」

http://twitcasting.tv/kamipro_saitou/movie/392561
昨日、kamiproがで「DREAMとK1をとりまく状況を整理する」とのテーマでツイキャストークをしたそうです。
残念なことにこの音声ファイルは今は聞けませんが、トークを受けて聴取者が書いたつぶやきから内容の一端がうかがえ、また書き込んだ人からの新情報もあり、状況を知る参考になります


主催者・ジャン斎藤氏のtwitter
http://twitter.com/kamipro_saitou


このツイキャス開催に当たって書いた氏の告知文章
http://twitter.com/kamipro_saitou/status/21360027040 から3つ

俺はFEGというイベント会社はそんなに好きではないんだが、谷川さんの顔色の悪さと湧き出るスキャンダルを目にすると、何かやらなきゃいけないと思ってしまう。できることといえば状況を簡単に整理することくらいだ(当然知ってる範囲だし、言えないこともあるのだが)。

繰り返し言っているがFEGは消滅する寸前だった(と思う)。PUJIとの提携でなんとか生き残るきっかけを掴んだものの、調整に時間はかかっており、まだまだ混乱は続いている。選手の未払い、MAXの大会日程は発表されていない。非常事態宣言は解除されていないのだ。

混乱はこのまま続くか。ここ1〜2ヵ月でその答えは見えてくるだろう。それまでのあいだ、繰り返しになってもいいからFEGが置かれた状況(勘違いしないでほしいのは、FEGだけではなく、イコール格闘技界に直結する問題ということ)を整理していきたいとぼくは思ってます。

 
トークの内容を詳しく紹介したブログ 
【DREAM】ギャラ未払いとFEG危機説
http://blog.livedoor.jp/suck_me_disco/archives/51684795.html

どのエントリも重要である。

青木真也の対戦相手は絶賛未定中。「強い相手を希望。川尻に勝った責任があるから」

http://www.kamipro.com/column/aoki.php?id=1282025377

月も試合がまだ決まらず。
「9月も厳しい試合をお願いします」ということで来たオファーを即答したものの相手選手が怪我をしてしまいスタートに戻る。
(略)
ここで厳しいガチンコマッチをするというのに意味があると思っていてそれは川尻達也という選手に勝った責任であり・・・

いいこと言った!

続・森毅伝説(副題:「森とテストとカレーライス」)

京大教授・森毅氏が亡くなったとき、自分はこういうブログを書いて、京大に伝わっているというある伝説を紹介した。

m-dojo.hatenadiary.com
その人から以前聞いた話。あんまり面白すぎるので、まァ伝説だろうと思うのだが・・・

モリキ(※京大生はこう呼ぶらしいです)が出す試験は、問題が分からなくても、「カレーの作り方」とかを解答用紙に書くと一応単位をくれるんや。それがずっと長年の伝統だったんやけど、なぜか同じようにカレーの作り方を書いたのに、単位もらえへん学生がいたんや。
それもへんな話なんやけど、その学生は「納得でけへん」とモリキに文句言いにいったんや。
そしたら一刀齋先生な、ふだんと同じ口調で
 
「キミの答えには、ジャガイモが入っとらんかったからねぇ」


これは主にtwitterにて紹介されて、「それは自分も聞いた」「別の大学の別の教授の伝説として聞いている」「カレーにジャガイモは入れないほうが本道だ」などいろいろなつぶやきを賜った。

さて、この森伝説をわたしに教えてくれた人にこの夏、また会う機会があったので反響を伝えたところ、この伝説には続きがあると教えてくれた。

モリキ(※京大では森氏の名を音読みする)の、「カレーにジャガイモ」云々が伝説かどうかはまあ分からんけどな、カレーの作り方書くと合格点くれるのはホントや。これで本当に何人もの人間が助かったからな。俺?それはまあええわ。(笑)
総計で何人が、カレーの作り方書いたんやろなぁ。
 
そんでな、モリキが定年で京大辞めるとき・・・、その退官者は、教養部報に学生へのメッセージを書くのが恒例なんやけど、そこで「自分の教室はカレーの書き方でテストをクリアできると言われていた。それは本当だ」と認めた上で「では、ぼく流のカレーの作り方を紹介したい」とカレーのレシピを書いてあったんや(笑)。
 
ところが!そのレシピっちゅうのがものすごく丁寧で、細かい本格的なカレーでな…それを読んだ、これまで森教室から単位を貰っていたわしらは、自分が解答用紙に記した、モリキのレシピと比べるといかにもいい加減な「カレーの作り方」を思い出して、深く深く恥じた・・・ちゅうわけや。

うむむ。まるで中島敦名人伝」のラストシーンのようではないか。

 その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟(しつ)の絃を断ち、工匠は規矩(きく)を手にするのを恥じたということである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html

ちなみに前回の補足でいうと、森先生が尊敬する哲学者にちなんで寝たまま講義をした、と書いたが、それは「デカルト」だったようです(と聞いたはずだが、ちょっと自信なし!メモとっておけばよかった)。
あと、教室を出てキャンパスの木陰の下で講義をしていた、というのも事実だそうです。
今回の続・森伝説は、教えてくれた人もあまりに面白すぎて疑われると思ったのか、ソースをあとで教えてくれた。
http://twitter.com/J_BILAT/status/19533469722
http://blogs.yahoo.co.jp/cherokee4517/36742000.html


余談ながら、この前某ライトノベルのタイトルを聞いて大笑いしたばかりなのに、早くもそれをパロディにしてすまんかった。(http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100610#p4

京大の保守派政治学者・高坂正堯は「うるさい!」と右翼の街宣車を怒鳴り「アカか?」と言われた。

京大つながりで高坂正堯氏のお話をひとつ。
この前、このブログも盆休みをしましたけど、ダテに休んでいたんじゃありません。まだパソコン、ネットのコンテンツは充実しておらず、雑誌が最後の繁栄を謳歌した90年代に、私がせっせと貴重だと思った記事を膨大にコピーした通称「グリフォン・ファイル」(最初は紙版、後半はネットのページ保存もあるのだが)を整理し、以前から皆さんに紹介したいと思っていたドキュメントを発見することができました。


高坂正堯
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9D%82%E6%AD%A3%E5%A0%AF

「近代の超克」を唱えた鳥取県出身の哲学者・高坂正顕の次男として京都市に生まれ…大学では国際法学者の田岡良一や政治学者の猪木正道に師事。なお、猪木は「高坂は僕が教えた中では、ピカイチの天才だった」と絶賛している・・・1963年、ハーバード大学留学から帰国した直後に「現実主義者の平和論」を『中央公論』に寄稿、論壇にデビューする。高坂は同論文において、当時日本外交の進むべき道として論壇の注目を集めていた坂本義和らの「非武装中立論」の道義的な力と意義を認めつつも、その実現可能性の困難さを指摘・・・(略)・・・「宰相吉田茂」は、吉田の築き上げた日米基調・経済重視の戦後外交路線をその内外政に即して積極的に高く評価し、当時否定的な評価が一般的だった吉田への評価を一変させ、現在に至る吉田茂への肯定的評価を定着・・・29歳にして高坂は現実主義を代表するオピニオン・リーダー……佐藤栄作大平正芳をはじめとする自民党政権のブレーンとしても長く活動…中曽根康弘首相の私的諮問機関「平和問題研究会」でも座長を務め、防衛費1%枠見直しの提言…コメンテイターとしてテレビ朝日系の「サンデープロジェクト」にも出演。・・・田原総一朗からは、「余人を持って代え難い方」と高い評価を受けた。軽妙な京都弁での語り口調が印象的だった。

最後のテレビでの活躍はご存知の方も多いだろうし、その外交理論は現実の政治家で言えば直接の弟子でもある前原誠司にも、またはてなの有名ブログ「リアリズムと防衛を学ぶ」のid:zyesuta氏にも影響を与えている、らしい。
ひとくちに保守と言ってもいろんな流れや濃淡があるけれども、高坂氏の言論や人物評価に対しては、攻撃にしろ賞賛にしろ一貫して「保守派の」という冠がつけられていた。
ところがだ。
 
同氏が亡くなった1996年に、「サンデープロジェクト」で何度も共演していた大谷昭宏氏が追悼文を書いている。これが大谷氏の文章の中でも屈指の明文なのだ。大谷氏の議論の暴走や破綻はネット界では皆様ご存知だろうけど(笑)、基本的には「黒田軍団」育ちの情の人であり、情で理論が崩壊するタイプ。最初から情一本で書ける文章にはいいものが多い。
大谷氏はナベツネ路線との確執もあった黒田軍団的に、(治安問題などを除く)政治の大状況を論じるときは、高坂とはまるで違う左派・リベラルを自認していたことも念頭に置いて読んで欲しい。

高坂正堯先生ともっともっと話がしたかった


高坂先生とは…サンデープロジェクトでご一緒させていただいた。と言っても私は震災や住専問題と言った特集がメインだから毎回の出演ではない。それに高坂先生は、学会や、教え子の結婚式と言うご自分の用事を大事にされ、テレビを優先させることは決してなかったので・・・それでも30,40回はスタジオの同じテーブルつかせていただいた。・・・
全共闘の真ん中に私は、防衛費の問題にしても、国際安全保障の件についても先生の「国家間の暴力は人類が避けて通れない課題だ」とする持論にはいささか反発はあった。しかし現実は目の前にある。ロマンを求める余り、現実を直視することを避けてはならない。それは社会の進むべき方向を誤らせてしまう。先生の姿勢はここにあったと思う。…私が死刑制度は存続せざるを得ない、という立場を取り続けているのも、先生のこんな姿勢に教えられたことが大きかったような気がする。
(略)
死刑制度といえば、番組で私がこの問題を取り上げたことがあった。わが子を雪の日に誘拐されて殺害されたお母さんが…遺品のかわいい長靴を胸の前でかきむしるようにしてないているビデオがスタジオに流れた。ふと見ると高坂先生が必死に声を押さえながら、見る間に涙をあふれさせている・・・(略)
<ここで、サンデープロジェクトでチームを作った草野球のエピソードが入るが省略>
熱狂的な阪神ファンであったことはあまりにも有名だが、これとて単なるファンではない。野球の話になると、番組スタートのギリギリまでソファーに座って熱く話される。それもきょう現在までの阪神の総得点が、何点で、総失点がこれだけと、その時点の数字がスラスラと出てくる。「こんなに阪神が点がとれんのじゃ、どないもならん。このまま行ったらシーズン終了まででも総得点はこのぐらいやろ。これじゃアカンわな」と、チームにロマンを求めながら、現状をきちんと分析しておられた。

さて、ようやく本題に。

先生の骨っぽさを知った思いがした時もある。番組が終わって、全日空ホテルのラウンジで食事をする・・・その席での先生の話がおもしろい。
京都大学というと、もちろん左翼系の学生も多い。天皇制に異論を唱える教授陣だっている。するとそんな動きに対して、右翼がやってくる。百万遍(※地名?)のあたりに街宣車を止めて、大音声でガナりたてる。ゼミにも講義にもならないのに学生や教授たちは知らん顔をしている。だが、先生は我慢がならない。
「ボク、飛び出して行って街宣車の下で、やかましゅてん講義にならん、出て行け言うて怒鳴ったったんや。そうしたら車の上で仁王立ちしていた男が降りてきて言うんや・・・(略)で、その男なんて言うたと思う?」と言ってあたりを見回す。
「いきなりボクに『お前、アカか』って言うんや。生まれてこの方、ボク、アカって言われたんは初めてやなあ、クフフフ」
もう二度とお目にかかれないと思うと、寂しくて、残念でならない。


(1996年の雑誌「ダ・カーポ」連載コラムより)

この右翼士の、政治思想地図を塗り替える大胆な高坂評価は、残念ながらその後の論壇では少数意見に留まったようである。

ん、全文読みたい?

のここ。
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/g/gryphon/20100819/20100819023749_original.jpg

高坂氏の本で一番個人的にすきなのは

世界史の中から考える (新潮選書)

世界史の中から考える (新潮選書)

福田恆存は戦前「野球部員を特別扱いは出来ない」と主張し、高校を追い出された。

保守主義つながり、または阪神の”甲子園”つながりで上から続けようか。これもグリフォン・ファイルの文章で、福田恆存の・・・やはり追悼文からなんですが。


時に、夏の高校野球も大詰めを迎えてますね。やっぱり私立高校が強いですなあ。うちの親などは、地域的な縁などに関係なく無条件で公立高校を応援、公立校が消えるととたんに興味を失うほどの公立びいきです。公立というより、専門的に野球をやっている半プロのような高校生に反感があるようで・・・公立だってそれに近い子はいるし、そういうのも才能の一環でありだとは個人的には思うんですがね。

それに関連し、福田恆存没の1994年に雑誌「正論」で兼子昭一郎が書いた「”現在の名工福田恆存の孤独」には面白い話が載っている。

前の勤務校、旧掛川中学は野球が強く、甲子園出場という夢の実現がほの見えてきたとき、全校、全町期待の星とされた生徒に零点をつけてしまった。白紙答案を提出されたからである。校長に呼ばれて詰問された。「零点とはどういうことか。出席点というものがあるだろう」
福田は答えた。「それも考えたのですが、授業中にボールをひねくり回しているだけで、まったく教科書を見ていないんです」
この時の校長との意見対立がどのような結末になったか、福田は覚えていないが、その後にもう一度、同じような事件が起きた。藤枝小学校から有能な投手が藤枝中を受験したが、どんなに甘い点をつけても合格ラインに入れられない。しかし野球のために入れなければならない。及落会議で福田は反対意見を述べた。
「この子を入れると、当然受かるはずの最低得点者一人を落とさねばなりません。学業をおろそかにして野球しかしない者を救えとおっしゃるのですか。」これに校長が答えた。
「これは校長の意思である。どうしても君が嫌だというなら、辞めてもらうしかない」
こうして福田は掛中を退職することになった。
おそらく最後の授業の時と思われるが、受け持ちクラスの生徒に「なぜ辞めるのですか」と聞かれ、それには答えず、2、3時間かけて「坊つちやん」を読んで聞かせた。

うむ。最後のシーンは目に浮かぶようだな。硬骨の教師が上層部や親の圧力で退職に追い込まれ、最後の授業で生徒に語る代わりに「坊ちゃん」を朗読して去っていく・・・なんか、ドラマとかライトノベルとかでもこのシーン、イタダキしてもいいのではないか。あまりにもかっこいい、この前書いた「人類の星の時間」である。


そういえばこういう教師時代のエピソードもある。

これは自分が「福田恆存全集」のどこかで読んだ話。
実は福田恆存、意外というか当然というか、渡部昇一が大キライだった(笑)。なんか他のところでも、ものすごい言葉で同氏を批判していた記憶があるが、私が覚えているのは、渡部が「大和言葉には、実に独特の情感の豊かさがある。漢語ではそれはつたわらない」的な文章を、もっと極端な調子で書いていたことに、そんなことあるかいと反論した文章。
ここで、福田は戦前のエピソードを語る。
教師時代、福田は「万葉の調べは意味が分からなくても日本人には伝わる」といった国粋主義雑誌の論文を読んだ生徒から「これは本当でしょうか」と尋ねられ、しばし黙考した後に、黒板に自作の万葉調の和歌を大きく記した。

「しろたいる/かなたはろかに/そこふかみ/ふとしくふむの/たむろせるかも」
これを福田は、朗々と読みあげ「どうだね、意味は分からなくても、感動するだろう?」と尋ねた。
生徒が分かったような分からないような顔でうなずくと、福田はにわかに再びチョークを取り、隣に漢字交じりで歌を書きなおすした

「白タイル/彼方遥かに/底深み/太しく糞(ふむ=フン)の/たむろせるかも」

教室は、爆笑に包まれたそうである。
(※たぶん描写には、ちょっと脳内梶原一騎による講談化が入ってます(笑))
編集も、全集ごとに違うだろうし、現在どの本で読めるかは不明

福田恆存評論集〈第7巻〉常識に還れ

福田恆存評論集〈第7巻〉常識に還れ

今日は、内蒙古の日本軍が武装解除を拒否し、ソ連軍と闘った「根本博の乱」から65周年。

昨日、
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100818#p3
の後半で書いた話ですね。そこで語った「根本博」をウィキペディアでひくと「8月19日から始まったソ連軍との戦闘」とある。つまり本日が65周年?
 
昨日の話を、今度はウィキペディアでおさらい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E5%8D%9A

根本について特筆すべきは、1944年11 月に就任した駐蒙軍司令官としての終戦時における行動である。終戦日の8月15日を過ぎても、ソ連軍は満州や中国での侵攻を止めず・・・手をこまねいていては、同地域に滞在していた同胞4万人の命が危ない。一方で日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら罪に問われる可能性もあった。・・・・・・罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は『理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う』と、日本軍守備隊に対して命令を下した。……必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、すさまじい白兵戦をも乗り越え、更に八路軍中国共産党軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。8月19日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いた…日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。出迎えた駐蒙軍参謀長は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。一方、20日内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。

この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡

この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡