日本って漢訳された洋書を輸入して近代化したんだけど、漢訳してた清は何の需要があって訳してくれてたんだ????
— 神奈いです (@kana_ides) August 2, 2025
よくその「漢訳された洋書」話が出てくるけど、当時の清国人の名前を挙げて「●●が漢文に訳した洋書」にしてほしいんだよね…それぞれに、前野良沢や高野長英らのようなドラマがあるはずなのでhttps://t.co/n19Q2yd3A4 pic.twitter.com/t7sRJn4aNB
— Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) (@gryphonjapan) 2025年8月2日
※まず、これに対して(俺基準では)驚くほどのいいねやリポストがあったのよ。みんな気になっていたのかもしれないな!!
何気ない投稿が意外なほど反応あるので追加したいけど「洋書の漢訳」(が日本に伝わった)って医学や天文学だけじゃなく、例えばミステリとかだって「犯罪の謎を解く物語…面白いな!」と明治の日本人と同様に反応してた、同時代に。当然ホームズだって訳す、二次創作する…https://t.co/FE7giyPiua pic.twitter.com/v0XjqDyEJf
— Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) (@gryphonjapan) 2025年8月2日
上海のシャーロック・ホームズ ホームズ万国博覧会 中国篇 (ホ-ムズ万国博覧会) 単行本 – 2016/1/26
樽本照雄 (編集, 翻訳)
ホームズ物語が連載中だった時代に、中国人作家たちによって書かれたパロディがあった! 1904年~1907年(清朝末期)に中国の新聞・雑誌に連載された、ユーモアから本格ミステリまで、さまざまなパロディを集めた作品集。パロディシリーズ第1弾!
あとがきにすこし背景の解説がある

むしろ翻訳などは書誌学的に、中国(清)のほうが先行してたとな。また「日本で発行される漢語雑誌」もあったという、意外な事実。
中国に講談で、名裁判官が登場し、その中には論理的に謎を解く「公事もの」があったことも想起したり。
明治日本で「ミステリ」の面白さに読者が目覚めていく経緯は岡倉天心の逸話が大好きなんだけど、清国でも同様だったかと思うと、何かエモい。
m-dojo.hatenadiary.com
ある晩、一雄は天心から、漢学と英文について今どんな本を習っているのか?と尋ねられる。漢学について答えると、では英文はどんなものを読んでいるかというので、「はい。ドイルの『アドヴェンチュア・オヴ・シャロック・ホームズ』です。」天心は、これに答え、ドイルの小説はおいらも好きで、書棚に3,4冊もっているから、ママさん(元子)や末娘・おこま(こま子)に話を聞かせてやると言って、一雄に院の二階の書斎から『スタディ・イン・スカーレット』もってこさせ、「英国の大衆作家中、随一といわれたドイルの探偵本」をくりひろげ、巧妙な座談で、面白く話して聞かせた。犯人が逮捕されるクライマックスになると、これから犯人の身の上話になるが、今日はもう晩いから続きは明日―
―と、言うと、こま子は続きが聞きたくてしかたがない。天心に催促すると、天心は、それならママさんにいって、もう一本お酒をもってこいと言う。これは天心の策戦で、当時、医者から酒2本と決められていたので、話の続きを聴きたがっていた元子とこま子をじらして、もう一本お酒をせしめようという算段。この策戦が効を奏して、追加のお酒を飲みながら、『スタディ・イン・スカーレット』を最後まで一気に語り終える。
これが第一夜。第二夜が『サイン・オヴ・フォア』。第三夜が短編集『アドヴェンチュア・オブ・シャロック・ホームズ』の中の『イレーネ・アドラー事件』と『赤髪同盟会』の2譚。例によって話の途中で、お酒を1,2本要求してお決まり以上のお酒をせしめる。こういう晩が十数日続き、種本がつきると、「まだこのほかに、同じドイルのシャロック・ホームズもので、『バスカーヴィル家の犬』というものもあり、『メモアーズ・オブ・シャロック・ホームズ』という短編集もある。しかし、本が手もとにないから、話はできないよ。」
こう言われると、話を聞きたくてしかたのない元子は、さっそく丸善へ駆けつけ、「シャロック・ホームズの一代記をください」と言って番頭さんを驚かせた。幸い勘のいい番頭だったらしく、元子は首尾よく『メモアーズ・オブ・シャロック・ホームズ』を手に入れ、その晩から天心の「妙味ある独特の話術」が始まり、十数日続いたが、とうとう種本がつき「連続講義」は幕を閉じた、という。
それから、最近映画にもなった…、幕末に日本で種痘を普及させた笠原良策を描く吉村昭「雪の花」。
あそこに、その種痘方法は「漢訳の本」で学んだ…と書いてあった……。今現物が見つからねーんだけど(笑)、しょうがないどこかにあるだろ、と検索したら自分のブログの過去記事があった(笑)
m-dojo.hatenadiary.com
疲労困憊した笠原が福井内にある山中温泉で蘭学を学んだ加賀の大武了玄と知り合うところから物語は動き出す。
蘭方医学に興味を持った彼は、京都の日野鼎哉という学者の門をたたき、正式に オランダ 医学を学ぶ。
そして師匠から、一冊の本を見せてもらう。日本より先にジェンナーの種痘法を輸入した中国で書かれた漢文の種痘手引き本、邱浩川の著した「引痘略」だった。
(ちなみに中国への種痘はスペイン→中央アメリカ→南アメリカ→フィリピン→そしてマカオに伝わったという)
実はこの種痘法が日本に来る前は前史があり人の天然痘を由来に予防しようとする「人痘法」が1700年代に長崎に伝わり 寛政年間には九州でかなり広がっていたようなのだ。 この方法は清の乾隆帝時代に完成した医学書にも記されている。

たとえば天下の!ウィキペディア日本語版でも「邱浩川」の項目は残念ながら無いっぽい?百度百科とかならどうなんだろう。
しかし古本屋で「写本の現物」が売られているからおそろしいな…
清 邱浩川
冊数
写本 一冊
状態
中古品(並)
解説
引痘畧は1831年に、清の邱浩川(きゅうこうせん)がジェンナーの牛痘論を基に、中国語に翻訳して刊行されたものです。また1847年に、小山肆成は高階枳園から借りた引痘畧を要約して引痘新法全書を出版しています。そして1849年に、肆成は日本最初の牛痘苗の実験に成功したと言われています。19世紀前半、ロシアやオランダから牛痘苗の接種技術が伝わり散発的に成功しますが、予防接種が全国的に普及したのは19世紀後半になってからです。ご存じのように天然痘は伝染力が強く、致死率も2~3割に達しましたが、1980年に撲滅しました。写した時期や名前は書かれていませんが、正確に写されています。
表紙が破れています。
在庫
在庫切れ(あんず古書店)写本 種痘本の漢訳
これを手書きで筆写したのは、どこの誰だったのだろうか。最新の医学に、それが数万人の命を救えることに心躍り、そして使命感をもって挑んだのだろうか・・・
そんな西洋の文物の「漢訳」を経由した伝播について。
今回はまだ調べが足りず、ただの「序説」としておきたい(ひとまずの了)
追記
こちらの話、補足でもうひとつ。
— Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) (@gryphonjapan) 2025年8月3日
元ポストへの反応で「洋書の漢訳というものが、歴史研究で軽視されてるのでは」みたいな流れになっているけど、その理由の一つが「当の中国で翻訳の歴史が軽視され、研究が進んでいないから」だそうです。ウーム……https://t.co/n19Q2yd3A4 pic.twitter.com/rvfDb7HCAK
>翻訳の歴史が軽視され…
— 摩尼郎 (@spa_inquisition) 2025年8月3日
なんとなく素材としての話題がないのはそう言うことかと思ってたらまさに https://t.co/mVdqtruM2V
「翻訳文学は、中国文学ではない」と…
— Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) (@gryphonjapan) 2025年8月3日
この本が出たのが2016年ですから、多少の変化を期待したいところです。