この前、ふとした話題から、かねてよりの疑問を書き、関連のXポストを集めて保存しました。
「神の力は人々の信仰がエネルギー源で、それによって増減する」との思想、設定について【創作系譜論】
いま読み返すとそれなりに情報が多いし、御成敗式目まで遡ってた論者もいるけど、実のところ自分はカスガ氏の言っている「ハイネの『流刑の神々』のような西洋近代文学が源流では」という意見寄りだった(理由は後述)
しかし、だ。
きのう、この話に関連するとは全然思わないで「大御所 徳川家康」という新書を読んでいました。
関ヶ原の決戦を制した徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。その職をわずか二年で秀忠に譲るが、駿府城に移ったのちも実権を掌握。多彩なブレーンを活用して、御三家の創設、諸大名や朝廷の統制、対外関係の再構築など、政権基盤の強化に努めた。他方では最大の脅威である豊臣家を滅亡へと追い込んでいく。大坂の陣終結の翌年に没するまで十一年にわたった大御所政治を辿り、幕藩体制成立の過程を明らかにする。
いわゆる駿府政治、家督も将軍職も譲った家康が、江戸を離れた駿府でいかに「実権」を握り、いわば二元政治をどう行ったのか?に興味をもって読んだのです。
それを奇想的に解釈し「影武者家康と将軍秀忠の対立」と設定したのが影武者徳川家康だし。
このように司馬遼太郎も「城塞」で書いていたな。
ただこの新書の話に戻って……
その話が進んでいくと、大坂の陣で勝利して「豊臣処分」を行う最晩年の家康のことも描かれるのだけど、そこで「豊国神社」破却の話が出てくる。
家康が東照大権現として神に祀られたことにより、秀吉は神の座を追われた。大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)五月、幕府は豊国廟一帯を破却し、豊国大明神の神体を方広寺大仏殿の境内に移す方針を決定し(『本光国師日記』)、七月十日に実行された。これを伝える金地院崇伝と板倉勝重の連署状には「豊国御改易」という文言がある(『高野山文書』)。豊国社の社領はすべて没収されたが、社務職の萩原兼従(吉田兼見の孫で、のち養子となる)は細川忠興のとりなしで豊後国で一千石の知行が与えられ、かろうじて存続が許された。
翌元和二年八月六日、方広寺大仏殿の境内に秀吉の墳墓が造営された。石塔が建てられ、秀吉は仏としての処遇を受けるようになったのである。幕府は天台宗の門跡寺院である妙法院に神宝などを与え、方広寺の寺領や境内の領有を永代にわたって安堵している(『妙法院文書』)。なお、神道関係の道具は吉田家に預けられ、屏風などは高台院(北政所)の所有となった。
豊国社が破却された理由について、江戸時代後期に京都町奉行の与力を務めた神沢杜口(貞幹)は、随筆『翁草(おきなぐさ)』で次のように述べている。神霊は人が敬うことによって威を増し廃れるときは威を失う。幕府は秀頼と敵対したから、たとえ祭を行っても神霊はこれを受ず、その虚に乗じて邪気が入りこみ禍いを働くので、妥当な措置であった(『日本随筆大成』)
神道に関しては、公会議のような教義統一のシステムもないので「言ったもん勝ち」のところがある。そもそも豊国神社が破却されたとして、祭神の豊国大明神はどうなったのか。
神道関係の道具を吉田家があずかった、とか神体を方広寺に移した、とか、秀吉の墳墓を新たに作ってそこに石塔をおいた(つまり仏教式で祭った)らどうなるのか。これ、実は昭和というか平成の世に、靖国神社のA級戦犯は分祀できるのか否か、で靖国神社は分祀はろうそくの火を分けるようなもので、A級戦犯の英霊だけが移る訳ではない、云々と主張したのに対して、どこかが豊国神社や神田明神の例を挙げていたという記憶がある(笑)。
だが実際、要は言ったもん勝ちなのである。それは豊国神社の神道の器具を預かった吉田神道そのものが言ったもん勝ちの「勝ち組」だし。
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豊国神社自体が、またも明治にご都合主義的に復活した……
秀吉の墳墓がある方広寺大仏殿の境内は、幕府によって修理が禁止されたため、江戸時代には荒れるにまかせる状態にあった。しかし慶応四年(明治元年、一八六八)閏四月に明治維新政府は、「秀吉は卑賤の中から身を起こし、自分の腕一つで種々の苦難を乗り越え、上古の聖人が成し遂げた偉業の跡を継いで、皇威を海外に広く知らしめ、数百年を経た今も彼らに脅威の念を抱かせている。国家に尽くした勲功の大きさは古今に超越する人物というべきである」と賞賛し、「朝廷は豊国大明神の称号を贈ってそれに報いようとしたが、不幸にして豊臣家は天の加護を受けることなく、長く徳川家の支配に服すところとなっていたが、今般の御一新を機に、秀吉のような英智雄略に富み世界に雄飛する人材が輩出されることを願って、秀吉を祀る神社を大阪城付近に造営し、その偉業を永く表顕する」旨の通達を発した(『行在所日誌』七号)。同年五月には、ここに戊辰戦争の発端となった同年正月の鳥羽・伏見の戦いで戦死した将兵を合祀することが決定された(『太政官日誌』十八)。さらに一八七五年(明治八)、豊国神社として京都東山の方広寺大仏殿内に造営され、萩原員光が宮司に任命された。同人は、幕末期から公家の岩倉具視と密かに連絡をとり、豊国神社を再興するための準備に余念がなかった(『萩原家譜』)。大阪の豊国神社は別社として存続したが(大阪市東区)、一九二年(大正十)に別格官幣社として独立した。
だから、そもそも「翁草」での主張も、執筆者個人の感想で、おそらく公式の神道教義ではないだろう。むしろそれが重要であって…
神沢 杜口(かんざわ とこう、1710年(宝永7年)[1] - 1795年3月11日(寛政7年2月11日)[1])
は、江戸時代中期の随筆家、歴史家、俳人。通称は平蔵[1]、のちに与兵衛[1]、本名は貞幹[1]。別号に可々斎[1]、其蜩庵[1]、痩牛[1]、静坐百六十翁など。京都町奉行所の与力を務めた後、晩年『翁草』200巻を書き上げた。
宝永7年(1710年)、京都入江家[注釈 1]に生まれる。享保4年(1719年)、兄卜志の下で爪木晩山主催の誹諧会を傍聴していたところ、晩山に句を促され、以降琴思や晩山に添削を受けた。享保5年(1720年)、京都町奉行所与力の神沢弥十郎貞宜の養子となると[1]、俳諧からは離れたが、享保10年(1725年)春、俳諧仲間柳谷が出来たため、再熱した。
後に貞宜の娘と結婚し、25歳で与力職を継いだ[1]。元文年間には内裏造営の時、向井伊賀守組与力として本殿係を務めた。延享3年(1746年)12月、日本左衛門手下中村左膳を江戸に護送する任務に関わった。後に目付に昇進した。現役時代より文筆を好み、北野天満宮松梅院から『岷江入楚』写本を借り、約6年間をかけて書き写した。
44歳の時に職を辞し[1]、自身の跡目を婿養子に継がせ、文筆活動に専念した。「残る世を其日ぐらしの舎り哉」の句を以て、其蜩庵を営んだ[1]……
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なぜ自分が、「「神の力は人々の信仰により増減する」は西洋由来、近代文学の産物なのだろう、と思ったかというと、要はこの思想・設定はあまりにも「不敬」というか「人間中心主義」だと思うんですよ。
不信心、不信仰を神が怒って罰する、ならわかる。あくまでも神は上位者、裁定者であり、そこから見て不信仰という罪を罰する。
だが「人が信じないと、神は人からその力を『受けられず』『自分が弱まってしまう』」というのは、人間の独立性や力をより大きく見積もった、なんともヒューマニスティックな発想だ、だから西洋由来だろう……が根拠でした。
だが、今回のそういう資料を見ると、江戸も後期…暴れん坊将軍が江戸を守護するこの時期に生まれ、教養を得た知識人層の思想が「日本に地生えした、近代的思想」であってもおかしくないな、とあらためて感じた。
これは日本スゴイとかでなく、神に関する思考を突き詰める暇と余裕が生まれると、どこでもそのような方向にいくんじゃないか?という話なのであります。
機会あれば、「翁草」の該当部分なども読んでみたいところだけど、まずは上の話の一材料として…
あと、自分じゃすっかり忘れてたが、はてなの優秀なAiが「きみ、神沢杜口と『翁草』に関して、過去記事を書いてるよ?」と教えてくれた。
同時代人・田沼意次についての話で、これもモーレツに興味深い。
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