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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「物腰も言葉も丁寧」「家来に心遣い」…田沼意次批判者が、逆に彼の人柄を記録していた

田沼意次の研究書を読んだ。「ミネルヴァ日本評伝選」というシリーズの一環である。

ここに京都町奉行所与力だった神沢杜口という人の田沼意次論が引用されている。この人は「翁草」という随筆を執筆したそう。

いま、このひとのウィキペディア読んだけど、記述少ないな…田沼関係でもあとで追加しようかな。
俳人でもあったそうなんだけど、メタな辞世の句が面白かった

……前々から辞世を残さないことを決め、「辞世とは即ちまよひたゞ死なん」の句を用意していた。
ja.wikipedia.org


そしてその神沢の「翁草」では、基本的に田沼意次を批判している。…だがその批判が、非常に資料的価値が高いと言うか、逆方向からある意味で意次の魅力を語っているのである。



神沢は田沼意次だけでなく当時の風潮を全体的に、このように評価していた。


田沼意次以前の権勢を誇る人は、居丈高に人を威圧して恐れさせ、見ただけで人が恐れるような強面の態度や表情だった。しかし意次以降の風潮は、権勢のある人でもいたって柔和で、人々への応対も丁寧、その物腰は、まるで身分の低い人間のようである』…と。

神沢は「それは表面だけの話で、人を手なずけて物を貪り取ろうとするのだ。外面は菩薩にいて内心は夜叉の如のごとし」…という形でこの話を結論付けてるんだけど、とりあえず田沼意次が大変柔和で礼儀正しいことがこれで分かるのだ(笑)


ちなみに大変な権力者だったが、礼儀正しくへりくだった態度で知られた人間は、田沼意次より一世代前の大岡忠光もそうだったという。どちらも「側用人」出身であるという共通点がある。

そして田沼意次が失脚し1万石に減封された時、いとまを出された奉公人が語っている田沼意次の人柄がある。これもまた神沢杜口に、直接証言し、彼がそれを書き残している。

家来たちに情けをかけるという点では比べられるものがない。
寒い早朝に江戸城へ登城するため供揃えし、乗り物に乗ろうとした田沼意次は、籠を担ぐもの・槍を持つ槍持ち・箱を運ぶ者など、たくさんの中間や足軽の奉公人がお供をするのだが、そのリーダーを呼んで
「今朝はひどく寒いのでお供の行列につく奉公人に無作法なことをしないように、とよく申し付けた上で、酒を振る舞うか、酒が飲めない人間には温かい食べ物を与えて寒さをしのがせよ」と指示した。
それにかかる時間の間だけ自分は登城を待っている、と屋敷の奥に一旦戻って、時間を取らせていたということである。


神沢杜口はこの証言を記した上で「うむこれは、かの田沼意次が裏に悪い魂胆を持っていて、それを隠すためのつくり事だ!!」と批判しているのだが。やらない善よりやる偽善ではないかね、これ(笑)

で田沼が実際に失脚し、一万石に減封された時、 収入が多かった頃の家来は当然雇えないのでリストラを行った。約270人の家来に暇を出したのである。
この時に「浪人になって難儀をするだろう」ということを考えた田沼は、その退職する家来たちにお手当金を与えた。
200両から50両まで身分に応じて、配られたのだという。
田沼家自体は、非常に小さくはなったが一応は存続するのである。
やめていく家来に配るよりその資金を手元に置いていた方が何倍も田沼家自体にとっては有用だったと思うのが、実際にこのように止めている家来に対してお金を配ったのだった。


またその後、田沼政治の問題点を報告するという仕事を仰せつかったらしいお庭番の梶野平九郎は、このような批判の報告をしている
「幕府役人がミスをする(心得違い、不調法)を犯せばお咎めがあるが田沼時代は本来化すべき処罰より軽い罰で済ませている。そのため風紀が乱れてしまった」

また寛政2年(1790年)幕府役人はこのように注意を受けている。
「最近の幕府文書は人への応対の仕方や文書の文面が丁寧すぎる。相手の身分や地位に応じて『丁寧すぎない』ようにせよ」と。
これも神沢杜口が書き残しているそうな。
やたらに慇懃を尽くし馬鹿丁寧にすれば良いという風潮はここ30年来のことであり、 それは田沼意次台頭後のことだ、と。


この本を執筆した藤田覚

「なんでもかんでも意次のせいにする神沢の物言いには問題があるのだが、すでに説明したような意次のへりくだった慇懃な態度、物腰、及び家来の丁寧な扱いからするとそのような…意次の態度や姿勢がこの時代の社会の風潮に影響を与えた、言い換えれば意次の個性が社会に強い影響を与えたということになるだろう。ここには意次の存在が如何に大きなものであったのかがよく示されている。
権力や権威をむき出しに振り回すより、人に対して穏やかに接し、人を丁寧に扱うことを良しとする、そのような風潮が広まった社会になった」

としている。

と言うか神沢杜口の「翁草」をこうやって間接的に読んでいると、松平定信が権力の座にあったポスト意次時代に、お上の目を憚って田沼意次を批判する文章の体裁をとりながら、このように田沼意次の人柄や態度を書き残しておこう!と思ったんじゃないか…?と思ったりするのだな(笑) まあ、実のところは朱子学的には、これらの態度やふるまいはそれほど評価されるものではない、という逆転現象なのかとは思う。


田沼意次の経済政策などには「再評価のオーバーラン」があるとも指摘されているが、この種の人間的なエピソードには、ちょっと今の視点では親しみが掛け値なしに湧いてくる気がする。