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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

本日が「虎ノ門事件」100周年~”昭和の杉谷善住坊”難波大助、摂政を狙撃す


タイトル、待て。事件も、実際の犯人名も、喩えた人物もすべて一般的な知名度が無いぞ(笑)

虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年(大正12年)12月27日に、東京府東京市麹町区虎ノ門外[1]で、皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件[2]。

関東大震災後に頻発したテロ事件の一つで、震災復興を進めていた第2次山本内閣は、引責による総辞職を余儀なくされた。

概要
1923年(大正12年)12月27日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇、当時22歳)が摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、貴族院へ向かうため御料車(自動車)に乗り、午前10時35分に皇居を発った[2]。

10時40分頃、皇太子の御召自動車は虎ノ門外(虎ノ門公園側)を通過中、芝区琴平町一番地西洋家具商あめりか屋前の群衆の中にいた難波大助が警戒線を突破して接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した[2]。銃弾は皇太子には命中しなかったが、車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長・入江為守(入江相政の父)が軽傷を負った[2]。自動車はそのまま目的地の貴族院に到着[2]。その時点で周囲が初めて入江の出血に気づいた。

なお、皇太子は事件後側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされている。皇太子は貴族院での開院式を終えて赤坂区東宮御所に戻り、内閣総理大臣山本権兵衛・警視総監湯浅倉平や皇族・武官・見舞客に引見したあと、午後には参殿した秩父宮雍仁親王および高松宮宣仁親王とテニスをおこなった[2]。沼津御用邸滞在中の大正天皇貞明皇后には、東宮大夫珍田捨巳が派遣された[2]。

一方、難波は「革命万歳」と叫んで自動車の後を追ったが、少し走ったところで、警察官や憲兵や群衆に囲まれてしまい、人々は難波を殴るやら蹴るやら踏むなど袋叩きにした[3]。犯人を逮捕したのは憲兵隊の者だった[4]。それから難波は麻縄で手足を縛られて警察の自動車に押し込められ、警視庁へ連行された。車内でも両脇の警察官から散々殴られ首を絞められたり、髪を引っ張られた[3]。

難波は逮捕された後、大逆罪で起訴され1924年大正13年)11月13日に死刑判決を受けた[5]。11月14日、皇太子と皇太子妃〔後の香淳皇后〕は裁判判決文を受け取る[5]。11月15日、難波は死刑を執行された。

この事件の背景には、関東大震災後の社会不安や大杉事件・亀戸事件・王希天事件などの労働運動弾圧に対する社会主義者達の反発、不満があった[要出典]が、なぜそれが皇太子銃撃になったのかは不明のままである。

影響

山口県の難波大助の生家
事件当日夕刻、当時の内閣総理大臣山本権兵衛、内務大臣の後藤新平、司法大臣の平沼騏一郎以下全閣僚は、皇太子(摂政宮)に辞表を提出した[6]。12月28日、皇太子は山本辞表提出に関し松方正義公爵・西園寺公望公爵から意見を聴くため、入江為守を派遣する[7]。12月29日、皇太子は山本を慰留したが、山本の決意は変わらず改めて内閣閣僚全員の辞表を提出した[8]。1月7日に内閣総辞職は認められた(後任の内閣総理大臣は清浦奎吾)[9]。また、当日の警護責任を取り、警視総監の湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になった。

難波の出身地であった山口県の知事に対して2ヶ月間の2割減俸、途中難波が立ち寄ったとされる京都府の知事は譴責処分となった[要出典]。また、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め謹慎し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職した[要出典]。

難波の父で、衆議院議員の難波作之進(庚申倶楽部所属)は事件の報を受けるや直ちに辞表を提出、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、食事も充分に摂らなかった。作之進は1925年(大正14年)5月に死亡した[10]。大助の長兄(正太郎)は勤めていた鉱業会社を退職し、家族以下蟄居生活を続けた[10]。

事件の翌日、皇太子が狙撃されるという事態にショックを受けた小川平吉が提唱し、北昤吉ら知識人、政治家、貴族院議員、軍人ら多数が参加した国粋主義思想団体である青天会が結成された。小川は難波を「露国共産党の先駆たる一兇徒」と断じて、コミンテルンの世界革命運動が社会に浸透して皇室を脅かすという考えから反共主義を広めた[要出典]。


難波大助の生家は、今も山口県光市立野に存在する。写真は屋敷内にある土蔵(私設図書館)の「向山文庫」
難波の処刑後、1926年(大正15年)5月下旬、皇太子は岡山県広島県山口県を巡啓する[11][12]。5月29日、山口県滞在中の皇太子に対し内大臣牧野伸顕は難波家の救済を進言し、皇太子も対応を命じる[10]。皇太子の意向を受けて、東宮侍従長入江為守・山口県知事大森吉五郎・司法大臣江木翼等が協議し、大森知事は新聞記者に侍従長質問文と知事回答文を発表する[10]。6月4日、県知事は正太郎を県庁に招致し、皇太子以下の意向を伝えた[10]。

この難波作之進の死により選挙地盤は松岡洋右が引き継ぐこととなり、さらに戦後は岸信介佐藤栄作という大物保守系政治家に引き継がれ、昭和史を動かす遠因となった。

次の清浦内閣の陸相のポストを巡って、薩摩閥の上原勇作が推す福田雅太郎と長州閥田中義一が推す宇垣一成とが争ったが、福田は関東大震災時に関東戒厳司令官の立場であったため、無政府主義者らの暗殺の標的とされていたことから摂政の身に再び危険が及ぶ虞があることを理由に宇垣が後任の陸相となった。宇垣は次の加藤高明内閣でも陸相を再任し宇垣軍縮を実行した。また後年、上原が田中に一矢報いた事件が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)である。 [13]

その他
難波が犯行に使ったステッキ銃は、河上肇の「思い出断片」によると伊藤博文がイギリスのロンドンで手に入れて、人づてに難波作之進に渡ったものであった。難波は「気晴らしの狩猟のため」と称して持ちだした。
ja.wikipedia.org


無理に比喩で入れた男は、こういう者。
m-dojo.hatenadiary.com
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ちなみに「なぜ難波大輔は摂政を撃ったのか」は、なにしろ情報統制もあったし、いまと同様にそれであるから揣摩臆測しほうだいなところもあって、たしか永井荷風が、その記述をどっかでしているらしい。
ウィキペにその記述があると思ったのに。

あった、あった。

gendai.media
大正12年12月27日、大事件が発生する。

議会開院式へ向け虎ノ門を通過中だった裕仁の車列へ向け、無政府主義者の難波大助が沿道から飛び出しステッキ銃で発砲したのである。車に命中しガラスが割れ、東宮侍従長の入江為守が負傷したものの、裕仁は無傷であった。難波大助は即座に民衆により取り押さえられた。

難波大助は、山口県の名門難波家の出身であり、衆議院議員の難波作之進の息子であった。事件を受け、内閣は総辞職し、また息子の責任を取って難波作之進は議員辞職の後、自宅の一室に籠って(蟄居)餓死に至った。

後に読売新聞中興の祖となる正力松太郎も、この時警視庁警務部長であったが懲戒免官となっている。そして難波大助は一人の無政府主義者として、自身が狂人でも何でもなく一人の主義者として摂政を狙ったことを明らかにし、大逆罪により処刑された。
(略)

難波大助はあくまで一人の主義者として事件を起こしただけである。しかし、公衆の面前で、それも山口県の名門の子息が起こしたこの大逆事件は、様々な憶測を呼んだ。

極めて政治的な事件の為に報道は統制化に置かれ、大震災後の混乱も完全に収束したとは言えない中で、市井の人々はほとんど事件の正確な状況を知ることは出来なかった。しかし今も昔も、人々はかなり早くから理由を作り上げるものである。

戦前の一大風俗資料である、永井荷風の日記「断腸亭日乗」では、事件翌年の大正13年11月16日に難波大助の死刑判決について冷ややかに記した後、欄外にこう記している。

「難波大助死刑大助ハ社会主義者ニアラズ 摂政宮演習ノ時其処ノ旅館ニテ大助ガ許婚ノ女ヲ枕席ニ侍ラセタルヲ無念ニ思ヒ腹讐(ママ)ヲ思立チシナリト云フ」

つまり、「摂政宮裕仁が、難波大助の許婚の女を演習先の旅館で犯した為、大助は復讐を思い立ち虎ノ門事件を起した」という出所不明の噂が、事件から一年経たない内に広まっていたと言うことである。

戦前においてこの伝説は広く知られていたようで、特高月報にもこれに由来する検挙例がいくつか現れるが、代表的なものは以下の通りである。


名古屋市南区曽池町三ノ五五地 小川一雄方 製靴職人 吉田則明(40)
被疑者は本年一月十六日名古屋市熱田区尾頭町一三番地露店商人取締園政五郎に於て同席者数名に対し、
天皇陛下が何が偉いんだ 天皇陛下は九州で難波大助の女を強姦して其の事を知った難波が怒ったら其の大助を捕らまへて死刑にして仕舞ったんじゃないか」(※後略)
二月二十七日不敬造言飛語罪被疑事件として身柄共名古屋区裁判所検事局に送致
特高月報 昭和17年3月分

呉市吉浦町西浜西町 西本繁登(36)
十二月十四日呉市新町遊郭にて、
「幾等高位高官の方でも無理をすればよくない、難波大助の大逆事件も今上陛下が大助の許婚の女に惚れられて侍従に取り持ち方を言い付けられたが侍従は許婚者があるからその様なことは出来ませぬとお断りしたのにも関わらず無理に望みを遂げられた為その女は難波に済まぬと言って自殺して仕舞った為大助が怒ってあんな事件を起し死刑にされる時でも非常に怨んで居ったそうな、この事件の弁護士に選ばれたのが花井卓蔵で花井は難波の弁護を断って職を辞め一躍天下に有名になったのがその罰で照宮様は唖である云々。」
と不敬言辞を弄したるものなり。(不敬罪にて検挙せり)
特高月報 昭和15年12月分

大逆犯とはいえ、大助にはある種同情的な視線が寄せられており、講談や歌舞伎の様な敵討ちの物語が出来上がっていた。

なお、反骨的ノンフィクション作家の牛島秀彦は、事件から54年後の1977年(昭和52年)に、難波大助について調査した際に未だ多くの人がこの都市伝説を信じていた事を記している(現代の眼一九七七年二月号 『虎の門事件の風聞と真実』)。

この中で牛島は、難波大助の行動を矮小化するために権力がこの様な伝説を広めたのだとしているが、特高警察が取締っている様子からすると残念ながら認めがたい。

また、「そういうことをする(恐れ多くも皇室を狙う)連中は正気じゃない、狂っているに違いない」という決め打ちで難波を精神病者にしようとした…その結果として罪一等を減じて助命しようという動きもあり、ある意味矛盾というか奇妙なことになったり…