ことしで40年目の節目なんですね。
今上天皇が、皇太子時代の「昭和50年」に沖縄と三重で遭遇した二つのテロ事件。危機一髪ならぬ「危機一発」の双方の現場で、警備責任者だったミスター「危機管理」は、いかに行動したのか。当時の過激派が総括しないまま、一部が「体制化」した今、「沈黙の掟」を破って書き遺す昭和の「大逆事件」との闘い。「ひめゆりの塔」「伊勢神宮」で襲われた今上天皇 菊の御紋章と火炎ビン (文春文庫)
- 作者: 佐々淳行
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2011/10/07
- メディア: 文庫
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沖縄編における、印象に残ったシーンを。
…私は東宮を訪れて…女官長などに面会し随従の心得を進講した。
「松村女官長、必ず火炎ビンが飛びます。妃殿下には決して化繊(化学繊維の洋服が流行っていた)のお召し物をお着せにならないように。麻か木綿でお願いします。火炎は炎になめられるとすぐ溶け、皮膚に粘りつき、化学性火傷を起こします」
…いわゆる「ひめゆりの塔聖域論」である。
両殿下が御礼拝する「ひめゆりの塔」のすぐ後ろにポッカリ直系7−8メートルの岩穴があいており、第一回目の一回りの視察の際に目をつけていたのだが、この周りを岩が囲み羊歯の葉がうっそうと茂っていたため、深さがどれ位なのか、奥行きはどうか、詳しく見聞することができずにいた。
当然私のチェックリストには載っている。
ある日の警備会議で…「ひめゆりの塔のあの洞窟、事前検索を行うこと」と気軽に指示したとたん、沖縄県警側からものすごい反駁の声があがった。
「警備課長!『ひめゆりの塔』を事前検索せよだと?あそこは沖縄戦のとき、女子挺身隊の女学生たちが殺された『聖域』ですぞ。それを警察庁が、土足で踏み荒らすなんて絶対に反対です」
(略)
「貴方がたは沖縄の心が全くわかっておらん。ワシらが、どんなに沖縄戦を憤っておるか。『ひめゆり部隊』をかわいそうに思っておるか、全くわかっておらん!もしワシらが本土にいって、伊勢神宮の内宮の奥の院に土足で入ろうとしたら、アンタらどうする?怒って中に入れんでしょうが。『ひめゆりの塔』は、我々ウチナンチュウにとっては、ヤマトンチュウにとっての伊勢神宮なんじゃ。(略)」
首をひねり、眉をしかめるような報告が入電しはじめた。
「7/13、琉球大、ガサ。17名の県機動隊、学生に追い返され、大盾2枚奪取」
皇太子同妃両殿下が予定通り「ひめゆりの塔」のある南部戦跡に向かわれる途中、危機一髪の事件が起きたのである。糸満市の白銀病院から車列に向かって、十数本の火炎ビンと思われるビン(実際は液体の入った薬品の瓶)が投下されたのだ。(略)宮城春友医師は、買い物袋に入れた空き瓶を投げ始めた犯人たちを制止しようとしてヌンチャクによる攻撃を受けた。
※この時の犯人の一人は、のちに名護市議会選挙に当選し、2015年現在も議員を務めている。
http://www.city.nago.okinawa.jp/7/6168.html
犯人2人は、私達が「聖域論」をやっている内に洞窟内に隠れていて、事前検索を断行すれば事件は必ず未然防止できたことがわかり、地団太を踏んだ。…横穴は実に約80メートルの長さで、…生活痕があった。そこには寝袋、缶詰…ビン入り酒3号…ガソリンと硫酸のビン各1本が残されていた…火炎瓶は点火式でなく、ガソリンと硫酸が混じると爆発発火する触発式のものだった。
(略)
あとからの調べで犯人たちは
知念功 昭和25年3月24日生、沖縄解放同盟
小林貢 昭和25年2月1日生、共産同・戦旗派、荒派・反主流派
と判明した。沖解同の黒ヘルと戦旗派の赤ヘルの、黒主導型の共同作戦とみた。
彼らは両殿下の参拝の時刻まで知っていて、携帯ラジオで「只今両殿下は『ひめゆりの塔』の前に額ずき、ひめゆり部隊の霊に哀悼の意を表しておられます」という実況放送をきいてから、組み立て式のジュラルミン梯子で塔裏に開口している竪穴をよじのぼり両殿下に火炎瓶を投げつけたのだった。
石垣の角にぶつかって発火炎上した炎は、すぐさまほとんど等身大の炎の波となって地上を走り、両殿下の足元にまで流れていった。爆竹の音と共に、誰かが「爆弾」と叫んだものだから、周辺警備の沖縄県警は直ちに退避し、両殿下の正面はガラ空きになってしまった。…(略)彼らはその場から”退避”してしまい、両殿下の身辺警備は309名も配備したのにも関わらず、両殿下を退避させてかばったのは皇宮警察のわずか18名だけだった(後略)
しかし、皇太子殿下も美智子妃殿下も、全く何事もなかったかのような平静な態度を保ち、毅然として定められた日程を、変更を望むこともなく…行啓を続ける。
(略)
少しも怖がっておられない。
「佐々メモ」には、7月17日事件発生直後の日記の欄外に「皇太子は火炎ビンに動じなくて偉かった」と僭越な感想をメモしている。…安全な場所に避難されたときの皇太子の第一声が、「源さん(※側近の一人)、無事でしたか?皆さん、怪我はなかったですか?」…(略)妃殿下の白い脛に痛々しい打撲傷のアザが残っているのに気がついた。
本部長記者会見が行われた……ガミガミ噛み付いてくる…まとめてみると、「手薄な警備のスキをつかれた大失態。県警本部長、辞表を出せ」ということなのだ。
私は笑いながらいった。
「どこの誰だい?昨夜まで”過剰警備”だ、沖縄敵視だ、わいわい言ってたのは?火炎ビンが1発飛んだらこんどは手薄な警備だ、責任とってやめろって。君だろ!? 昨夜一番烈しく”過剰警備”だって叫んでたのは」
すると、その記者が反論した。
「それは昨夜はたしかにそういいました。佐々さんが、わざわざ来てやってるんだから”警備の神様”が失敗するわけないと思うから”過剰警備”だって論評したんですよ。その佐々さんがこんなヘマやったんだから許せない(後略)」
この警備(の失敗)は、基本的に自慢話がすきな佐々淳行氏にとっては、実際のところ不名誉な”負け戦”の記録である。
あと、比較的佐々回想録の中では新しく、関係者が鬼籍に入ったほか、年をとってだんだん遠慮、こわいものがなくなってきたので身内の警察仲間に対しても含めて辛辣になってきている。(徐々にそうなっていっていることは、読み続けた読者にはおわかりでありましょう)
で、実際にこの事件その他を受けて、三重県に飛ばされる佐々淳行でありましたが、
その左遷場所?の三重県で、前代未聞の「部落解放同盟伊勢支部長逮捕事件」に直面するとは、その時は誰も知るよしもありませんでした…
と。
【追記】ブクマによると、週刊朝日2016年に、以下のような「火炎瓶男」のその後の人生がレポートされている由。
「皇太子(現天皇)をガソリンの火で出迎えろ!」−その手が届きかけた「沖縄火炎ビン事件」とは(佐々淳行「菊の御紋章」と火炎ビン) - 見えない道場本舗b.hatena.ne.jp
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佐々の本。“「沈黙の掟」を破って書き遺す昭和の「大逆事件」との闘い。”うげっ、なんつーコピーじゃ…/失敗談というか、やはり責任転嫁してるな/知念のその後は→<a href="https://dot.asahi.com/wa/2016012800033.html" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://dot.asahi.com/wa/2016012800033.html</a>
2019/04/28 02:42