ちょっと別の話題から始めるが、4月28日を「主権回復の日」としたとき(60年目の2013年に記念式典があった)「当時、沖縄や小笠原諸島は主権が回復しなかった。それなのにその日だけを祝うのはおかしい」という議論があった。
ならば、「8月15日」で終戦を記念した場合、その後に起きた戦闘などの被害を軽視・無視している、という話にもなるのではないかな。
この話は毎回「21日」に書いているんだが、今年はちょっと前倒しした。
m-dojo.hatenadiary.com
1945年(昭和20年)8月のソビエト軍の満州進攻には、同月10日モンゴル人民共和国(当時)も日本に対して宣戦布告して参戦、ソ連・外蒙の両軍が内蒙古地区に進攻してくる事態となった[3]。両軍の進攻は8月15日の日本降伏後も止まらず、同地域の日本人住民4万人の安危が懸念された。ソビエト軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令を下した。
途中幾度と停戦交渉を試みるが、ソ連軍は武装放棄と進駐に応じることを求め、交渉はいずれも決裂した。攻撃を続けるソビエト軍に対し、何度も突撃攻撃を繰り返しソビエト軍の攻撃を食い止めながらすさまじい白兵戦を繰り広げた。更に八路軍(人民解放軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた[注釈 1]。一方、根本は中国国民党軍の傅作義と連絡をとっていた。
8月19日から始まったソビエト軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソビエト軍の進軍は停滞、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の部隊が27日に万里の長城へ帰着した。
ja.wikipedia.org
※撤退開始時の21日をもって戦闘は終了したとしてもよい
占守島の戦い
進軍する日本軍の戦車部隊。
戦争:太平洋戦争(終戦後)(ソ連対日参戦)
年月日:1945年8月17日 - 同年8月23日[1]
※降伏文書調印は21日なので、その日で終了したとみることも可能