終戦記念日間近の、8月の読書メモ的に。
時代と社会の変容とともに「ありうべき皇后」像はあった――。血脈による正統性が保証された天皇とは異なり、人生の途中で皇室に嫁ぎ、さまざまな葛藤を克服するなかでその存在となる「皇后」。神功皇后や光明皇后ら、過去の偉大な皇后と感応しつつ、近代日本に時空を超えた皇后像を現出させ、さらにはアマテラスに自らを重ね合わせようとする貞明皇后。斬新な視点で天皇制の本質を明らかにし、秘められた扉を開いた記念碑的著作!
漫画「昭和天皇物語」でも登場しているが、かなりの保守ぶりを持ち、皇室の近代化というか洋風化を苦々しく思っている存在として描かれる(夫・大正天皇がそれを進めた面もあるはずなのだが…)
優秀な軍人でもあり、革新将校に近い弟・秩父宮に肩入れしていたのではないか?とも言われる。
まあ、その辺の解釈より、節子皇太后が残した和歌の過激っぷりが面白いのでメモしておく。
けっこうガチ。節子皇太后だけはガチ。
あら玉の年のはじめにちかふかな かむながらなる道をふまむと
神ながら開けし道の奥遠み ふみそめしより十年へにけり
色あせず 残る紅葉をぬさとして あかき心に紙をたのまむ
天照す日はのぼるなり万世の 秋をしめたる菊のそのふに
御光をあふぎまつりて願ふかな いたらぬこころをしえ給へと
天照すひるめの神の御ひかりを いまこそあふげ千万のくに
かしこしや 八咫のかがみのみひかりを 亜細亜のひともあふぐ御代かな
うちくだき仇をよせざるますらをの ちからたのみておくる年かな
かちいくさいのるしるしの大づつみ かしこみききてこゆる年かな
皇み民勝つたびごとにかぶとのを しめなほしつつみ国まもらむ
ソヴィエトの共産主義か亜米利加の 民主主義ともなるやみ民も
すめらきをたふとむ心うしなはば 阿修羅獣にひとしかりけり
ただ、写しながら思ったのは、そもそも皇族が「神がかり」というけど、そもそもどこまで神道を信じているのが皇族のデフォルトというか理想なのか、である。
天皇・皇族は本当に神道の教義を心から信じているのか、という論点は
特に戦後はほとんど問題になったことがないんじゃないだろうか。国の民も含めて。
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山本 その例として、こんなおもしろい話があるんです。つまり天皇的ファンダメンタリストがあれば、進化論を否定しなくちゃおかしいですよね。天皇がサルの子孫であるというのは容認できないでしょう。あれは神の子孫のはずでしょう。
小室 ところが誰も問題にしない。
山本 そればかりか不思議なことに、戦争中、平気で進化論を教えているわけですよ。だから私、フィリピンの収容所でアメリカ兵に進化論の説明をされて、こっちははなはだしゃくにさわるわけなんです。このアホ、なにいってんだと。中学校程度の知識をもって、おれに進化論を説明するとはなにごとだ。だから逆にそのときビーグル号かなにかの話をしてやったんです。そうすると相手は驚いちゃうわけです。ところが、先方は「それじゃ、おまえたちは現人神がサルの子孫だと思っていたのか」と。
小室 日本人、誰もこの矛盾に気がつかない。
山本 気がつかない。アメリカ兵にそこを指摘されたとき、こっちはあっと驚くわけです。つまり天皇が現人神だといっていた国には、進化論はあるはずがない、彼らから見ればそれが論理的帰結ですから一所懸命、進化論の説明をしているわけです。
小室 逆に進化論を信ずれば、天皇が現人神であるはずがない。だからどっちか片方信ずるってことはあり得ても、両方いっぺんに信ずることはないと。
山本 あり得ない。じゃ、なぜ日本教において両方いっぺんに信ずるのか、これが日本的ファンダメンタリズムのいちばんの基本問題になるわけですね。