ちょうど本日、こういう記事が話題になってタイムリーな話になった。
「’23年の1月か2月中には解散命令請求が出て、早ければ夏頃には地裁で命令が下されます。国は教団解散に向けて本気で動いている。裁判で確実に主張が認められるよう、現在は文化庁を中心に証拠集めを徹底的に行っていると思われます」
そう語るのは、長年教団を追及してきたジャーナリストの鈴木エイト氏だ。
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静岡新聞などに掲載された、共同通信配信のコラム。以下、引用し要約。
・『宗教団体は一見したところ「信条」のために世間からの偏見にさらされがちな少数者であり、特別な保護に値しそうである。カルトと呼ばれる団体は特にそうであろう』
・『(しかし)反日的色彩の強い外国の本部から指令を受けてそうした政治活動を行ってきたのだとすると、国民主権の観点からの懸念もありそう』
・『旧統一教会に関しては、宗教法人の解散を命ずるべきだとの議論がある。信者への常軌を逸した額の献金要求のため、家庭の崩壊を招いている…もっとも献金を求める宗教団体は珍しくはない……普通の献金の要請と、詐欺や強要に類する金銭の要求との違いはどこにあるだろうか』
・『信仰の中身が合理的か否かを区別の根拠とすることは難しい…そもそも合理的な信念を信仰とは言わない…正しいか否かを、裁判所をはじめとする公権力が判断すべきではない』
・『一つの線の引き方は、献金を求める側が自分たちの「信仰」の中身を本当に信じているか…(和歌山県の明覚寺解散命令事件)…そうしたケースで、宗教法人の解散を命ずることにちゅうちょすべきではない』
・『どのような場合に、どのような根拠で宗教法人の解散命令を出すべきかは、旧統一教会のみならず宗教法人一般にかかわる問題であり、注意深く具体的な事実に即した検討が必要』
うー------ん、わからんではない、けれども…。
明覚寺とか法の華、とかはある意味、結果的に何とかなったけれども、「献金を求める側が本当に信じているか/内心では信じていないが詐欺的に献金を集めたか」での区分って、結果的には「より狂信的な集団がセーフになる」というのと「そもそも、本心ではこの宗教の教えなんて信じてませんよー、の証拠を見つけるのが難しい」という二点が出てくるんじゃないかな。
実際のところ、どれだけ本気で信じてるかなんて、失礼ながらローマ教皇だってダライ・ラマだって、皇室神事をつかさどるすめらみことだって、疑念が頭をよぎることもあるんじゃないかなあ、なんて思ったりさ。
そんな疑念と信仰を行ったり来たりするのが「禅味」だったりする…
まぁ、統一教会はちょっと掘れば露天掘りのように「実は信じてませんでした、献金は詐欺商法でした」なエビデンスが見つかるかもしれんけど(笑)、逆に教祖(の継承遺族)含めてガチガチの狂信だからこわい、ということもある……憲法学の立場からの線引きは、なかなかに難しいかも、でした。