「青に、ふれる。」という漫画があります。月刊アクション連載。
生まれつき顔に太田母斑(おおたぼはん)と呼ばれる青いアザを持つ女子高生・青山瑠璃子。アザのことを気にしすぎないよう、周りにも気を使われないよう生きてきた。新たな担任教師の神田と出会った瑠璃子はある日、神田の手帳を目にしてしまう。クラスメイトの特徴がびっしりと書き込まれているのに、自分だけ空欄なことに気づいた瑠璃子は神田を問い詰めに行く。しかし、神田は“相貌失認(そうぼうしつにん)”という人の顔を判別できない症状を患っており――。
「“相貌失認(そうぼうしつにん)”という人の顔を判別できない症状」と「生まれつき顔に太田母斑(おおたぼはん)と呼ばれる青いアザ」を組み合わせると、作劇面でプラスというよりマイナスじゃないか?と最初は思ったのですが、そんなこともなく良質な作品となっております。既刊も続いている。
ここからの連ツイで一本試し読みができる。
つい自分を責めてしまう時、友の言葉に救われた話
— 『青に、ふれる。』公式アカウント (@aofure_comic) 2022年9月12日
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さて、物語は主人公らが進級し、最終学年になるところまで行ったのですが、春の新学期から卒業アルバムの製作が始まる。そこで……
”本人の意思も聞かずに”修整されるのは問題だという、これは当然の考え方から、学校は本人の意向を確認することになった。
主人公は、「このままでいいですよ」と答える。
これにて一件落着、ではあるが……
次の回で、担任教師の神田(例の相貌失認のひと)は、やはりもう一度、彼女に真意を訪ねると______
この先天性の痣については、最近幾つかの書籍などが出版され、話題になった気がする。何といっても、視覚聴覚や四肢の不自由などとは違って日常生活には本来は支障をきたさない(筈である、べきである)ということで、社会問題として後回しにされたことも否めない。だが、実際の問題としては顔に先天性の痣があることは大きな影響を与えている、という建前と実態の乖離。
と同時に、「何が不幸で不自由かは、自分自身で決める。周囲が決めつけないで」という、これまた正論な声も存在する。
だから、写真は修整するかどうかを本人の意思に委ねる、はまったく正しく、非の打ち所がない話ではある。だが、その「本人の意思」は確立されたものなのか____。
この話、なにやら「ツァラトストラはかく語りき」でも出てくる話で
(補足) 「ツァラトゥストラはかく語りき」(1885)は、ニーチェの代表的著作。「神は死んだ」や「精神は肉体の玩具」といった名言は、ここが初出。ツァラトゥストラは、ニーチェが創造した架空の「超人」で、人間の弱さを暴き、克服する道を説く。 pic.twitter.com/W2nMqhgCSh
— ゆっくり文庫 (@trynext) January 25, 2019
その中に、せむし男との対話がある。せむし男はツァラトゥストラに、(おまえが救世主なら)自分のせむし(障害)を取り除いてみろと挑発(懇願)するが、ツァラトゥストラは「もし、せむしからそのこぶを取り去るならば、その精神を取り去ることになる。」と断る。
— ゆっくり文庫 (@trynext) 2019年1月25日
一方、独眼竜との異名をとった伊達政宗ですら、遺言で「自分の木造には両目を入れるように」とした、とも伝わる。
政宗像は両目が開いてます。伊達政宗は独眼でしたが、遺言で、絵や彫像はすべて両目を入れるようになっているそうです。
guzurabo.my.coocan.jp
そんなことにも連想が及んだ作品でした。この話題は、最新号で一応、結論が出たとも言えるし出ていないとも言える状態に。
この場合、漫画的には、たぶん「修整はいらない」ときっぱり宣言する、のほうが座りがいいんでしょうけど、そうではなかった。そこに作り手の真摯さも見る。