これが話題。
ロシアにはいっぱい熊がいるのに、ロシア語に「熊」を表す単語は存在しないらしい。
— 加藤マニ (@katomani) January 16, 2022
大昔には「熊」を意味する単語もあったけど、「名前を呼ぶと熊を呼び寄せてしまう」という信仰があり、その単語は誰も思い出せないくらい使われなくなり、ついには忘れ去られてしまったらしい。おとぎ話みたいだな。 pic.twitter.com/ExkgPdSw5j
これについては、「〜を〇〇する存在」みたいな長い言葉で説明していることが「名前が無い」とは限らない、という話もあり、それはもっともでもあるが定義の話、ともいえる。
[B! 言葉] ロシア人『何で日本人がそんなコト知ってるんだ?』...ロシアにいっぱい熊いるのに、ロシア語に「熊」を表す単語は存在しないらしいし、存在しないって事すらしらない
あと、婉曲表現にしても「はちみつを食べるもの」は、そこを強調しないでも、と思うな。シャケだってひとだってくうじゃんよ。
ロシア語には「熊」という意味の単語はないけれど、「メドヴェーチ(Медведь)」という言葉があって、意味は「蜂蜜をたべるもの」なんだけど、この言葉が「熊」という意味も持ってるらしい。歪曲的に表現することで熊を呼び寄せないようにしてるみたいだ。
— 加藤マニ (@katomani) 2022年1月16日
でもやっぱりくまといえばはちみつなんだろうなあ。
くいしんぼうのクマのプーさんは,いいことを思いつきました.風船につかまって,木の上へハチミツを取りにゆこうというわけです.ところが,めざといハチたちにあやしまれてしまいます.
最近のほかのくま記事。
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で、それはそれとして…冒頭紹介のまとめにつけたブクマに結構スターがついた。
万葉集などの古い和歌で、いくら調べても「蝶」が出てくる歌が無く、それは何かの信仰的な忌避なのではないか、という説があったが、あれの真偽はどうだったのかな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4725555371744807107/comment/gryphon
いや実はこの話、くわしいことしらんのよ。
簡単なコラムで紹介されているのを読んだだけで。
さらには、今軽く本棚を調べてみると、現物が無いや。
後で見つかると思うが…
日本語が乱れている。単語の混乱ではない。「名」の混乱、パラダイムの混乱なのである。だから孔子にならい、呉智英も言う。「必ずや名を正さんか」と。誤字を笑い、誤文に怒りながら、著者は、言葉と思想について、言葉と文化について、根源的な「知」の面白さを開示する。目からウロコが落ちまくる、知的エッセイの名著。
仕方がないので、孫引きのていで紹介する。
空中をひらひらと舞う「ちょう ^{*1} ∗1 」の語源は中国語である、というのを呉智英 ^{*2} ∗2 の本を読んで知った。「ちょう」は漢字「蝶」の音であって日本に元からある言葉ではない。それでは日本での古来からの呼び方は何であったか。「かわひらこ ^{*3}∗3 」と呼ばれていたらしい。方言も色々で「かにべ」「てこな」「ふまつべったら」「あまびら」「ひるろう」「ひいろ」 ^{*4} ∗4 などがあったようだ。
いつ頃、どういった理由で日本語の「かわひらこ」が中国語の「ちょう」に変わってしまったのかよく判らないが、八世紀頃に「てふ」という言うようになった地域が出てきたようだ。蝶は霊的な存在として古くは見られたので、そのものを言い表すのは忌避されたらしい。万葉集に「ちょう」が登場しない ^{*5} ∗5 のはそのためとも考えられている。
例えば「菊の恨み」(101~104)は、音読みは中国語の発音であり、訓読みはその中国語に対応する日本古来の発音であり、中国からの渡来植物である「菊」は音読みだけで訓読みは無いという。エーー!日本の国花(皇室の紋章)と思われてる「菊」が中国渡来植物だった。逆に「花も蝶も」(105~108)では日本に昔からいたはずの「蝶」にも訓読みが無く、万葉集にも出てこないという。何とも日本語の奥深さを感じさせる。
honto.jp
万葉集に限定して調査すると、たしかに蝶はないとか。
万葉集:蝶(ちょう)を詠んだ歌
平成11年12月12日(日)更新
蝶(ちょう)は春の花をより引き立たせる生き物だと思うのですが、万葉集には一首もありません。大伴家持(おおとものやかもち)の歌の説明に登場するだけなのです。
第五巻 : 正月立ち春の来らばかくしこそ
平成11年12月12日(日)更新
この歌は、大伴旅人の邸宅で詠んだ梅の歌三十二首の最初の歌です。これらの歌に先立って、序文が漢文で記載されています。
原文: 梅花歌卅二首并序 / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以□(手偏+慮)情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠
要旨: 天平二年正月十三日に太宰府の帥(そち)大伴旅人(おおとものたびと)さんの邸宅で宴会をしました。天気がよく、風も和らぎ、梅は白く色づき、蘭が香っています。嶺には雲がかかって、松には霞がかかったように見え、山には霧がたちこめ、鳥は霧に迷う。庭には蝶が舞い、空には雁が帰ってゆく。空を屋根にし、地を座敷にしてひざを突き合わせて酒を交わす。楽しさに言葉さえ忘れ、着物をゆるめてくつろぎ、好きなように過ごす。梅を詠んで情のありさまをしるしましょう
https://web.archive.org/web/20021104213526/http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/animal/cho.html
https://web.archive.org/web/20020914220508/http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/five/m0815.html
で、最終的に「歌に”出てこない”理由」なんて探すのはむつかしい。出てこないってだけなら、カブトムシやクワガタも出てこないらしい
そんなわけで、万葉集などの古い和歌に「蝶」が出てこないのは、宗教的、怨霊信仰的な何かだ、という説はその後どうなったのでしょうか。他の説とかはあったのでしょうか。
詳しい人のご教示を、へんなきっかけですが要望しておきます。