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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「鎌倉殿の13人」、今回の北条泰時のような「民衆救済は為政者の役目」という思想自体が、鎌倉時代に成立したらしい。

「鎌倉殿の13人」最新回で、北条家の若きエース北条泰時が(まあ今回改名したんだけど)、一族が納める伊豆で飢饉が発生した時にその事態収拾のため、百姓たちが米を借りた時の証文を全て破り捨て、それが大きな評判になる、という話を描いてました。



さて、ドラマ的にはそんな感じで磨かれましたが、そもそも支配者たちが「民衆を慈しむ」という政治思想、これ自体はどうやって日本国に根付いていったのか。


支配者と民衆がいれば、自然発生的にそういう思想が出てくる…訳でもなさそう。
自分はこれらを、やはり「儒教」の影響+民衆の支持がなければそもそも領域支配もままならない戦国時代での、北条早雲あたりからの試行錯誤によって生まれた、と思っていた。
司馬遼太郎もそんなこと書いてた)


ところが最近読んだ
本郷和人の「北条氏の時代」(文春新書)では、 これをかなり遡って鎌倉時代ぐらいから成立した、としていたのでした。

「大河」ファン必携の北条全史
鎌倉幕府百五十年の歴史をつくった謎の一族、北条氏。名もなき一介の武士の一族が、なぜ政権を奪取し日本を動かし続け、最後は族滅したのか。時政、義時、泰時……、歴代の北条家当主のリーダーシップから読み解く鎌倉通史の決定版。

――北条家のリーダーたちに学べ
第一章 北条時政 敵を作らない陰謀術
第二章 北条義時 「世論」を味方に朝廷を破る
第三章 北条泰時 「先進」京都に学んだ式目制定
第四章 北条時頼 民を視野に入れた統治力
第五章 北条時宗、貞時 強すぎた世襲権力の弊害
第六章 北条高時 得宗一人勝ち体制が滅びた理由

※ちなみにこの本を読んでしまうと、当然ですがドラマ的にはネタバレ多数


もっともも本郷氏は(はっきりした政治思想として根付くのは)「北条時頼の時代ごろから」としているので厳密には、ドラマの泰時はそれが実践の中から生み出されつつある「プレ民衆救済」時代なのでしょうか。
(こういう事績は吾妻鏡に描かれてるわけだから。ただ同書の成立年代の問題もあるな…遡って、こういうことを過去にしたよ!と記述してもおかしくはない)

しかしこれには元ネタがあり、中国大陸の古典『史記』『戦国策』に登場する馮驩(ふう かん。紀元前3世紀ごろ)のエピソードを『吾妻鏡』編者がほぼそのまま流用(パクリ?)した可能性があります。

もちろん泰時がこれらの漢籍に学び、馮驩を意識・実践した可能性もあるため、一概に創作と断定はできません。

これは北条びいきの『吾妻鏡』編者が泰時のすごさをアピールするために創作したのか、あるいは単に当時世の中に広まっていた伝承を収録した可能性も考えられます。

でも、ただ泰時≒北条氏の凄さをアピールしたいのであれば他の執権たちにも色々盛り込めばいいのですし、やはり「泰時ならそのくらいやってくれそう」という伝承の下地となる活躍があったのは確かなようです。
mag.japaaan.com


とまれ、興味深いのでメモ代わりに引用しておきます


北条時頼の治世について特筆すべきことは、この時代に「撫民」、すなわち為政者は民を愛しむべきだという思想が明確に語られ始めていることです。これまで繰り返し「鎌倉幕府は星のための政権だ」と述べてきましたが、裏を返せば彼らの関心は御家人の利害のみ、もっと言えば自分の一族の利害に限定されたものだったともいえるでしょう。
北条時頼はそれに対し、民を労わるという思想を強調しました。地頭の下で工作に勤しみ、商業活動に精を出す人たちを大切にしようというスローガンを掲げたのです。


ではなぜこの時期に鎌倉幕府は「撫民」 という考えを持つに至ったのでしょうか。
私は三つのポイントがあると考えます。
一つ目は京都で朝廷が始めた「徳政」の影響。二つ目は浄土宗に顕著に現れる「平等」の思想、そして三つめは御家人たちは地頭となって荘園に暮らす人々「統治」する立場に立ったことです。

(略)
私がキーパーソンとしてあげたいのは…極楽寺重時です。極楽寺重時は、もっと今の日本人にも知ってもらいたい人物の一人です。…極楽寺重時は後に日蓮に「極楽寺殿は浄土の教えを信奉したため、一族が早死にで、ほとんど家が絶えてしまった」と罵倒されたほど熱心な浄土宗信者でした。

ここで、筆者の本郷和人氏は、極楽寺をはじめとする鎌倉武士、京都の朝廷、そして浄土宗の教えの中に前後して「神を作ったり仏事を行うときに、そのためだと言って民衆に重税を課し、搾り取った金銭で行ったとしたら仏は喜ばない」という意見が出ていることに注目。鎌倉仏教的な慈悲の教えが徐々に政治哲学として為政者の中にも広まっていったのだろうと推測している。
宗教は昨今、色々評判が悪いが、ヴィンランドサガで、北のパーサーカーたるバイキングもキリスト教で徐々に乱暴さが減っていったように、仏教もやはり究極的には、東のパーサーカー・鎌倉武士に少しは人の心を植え付けたのかもしれない。