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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

大きな転換期の、苦闘の首相―海部俊樹氏を悼む。

海部俊樹元首相が死去 91歳

2022年1月14日 20時36分

平成元年から2年余りにわたって総理大臣を務め、湾岸戦争を受けて、創設以来初めて本格的な自衛隊の海外派遣を決断するなどした、海部俊樹・元総理大臣が今月9日、東京都内で老衰のため亡くなりました。
91歳でした。

(略)
平成元年の参議院選挙で自民党が敗れ、当時の宇野総理大臣が退陣を表明すると、海部氏は自民党総裁選挙に立候補しました。

そして早稲田大学の先輩にあたる竹下元総理大臣が率いる、当時の竹下派の支援などを得て当選し、第76代の総理大臣に就任し、初めての昭和生まれの総理大臣が誕生しました。

海部氏は水玉模様のネクタイをトレードマークに、クリーンなイメージで国民の支持を集め、平成2年の衆議院選挙で自民党を勝利に導きました。

平成2年8月にイラク軍がクウェートに侵攻し、湾岸戦争に発展すると、海部政権は多国籍軍に総額130億ドルの資金を提供し…
www3.nhk.or.jp

自分のブクマは

ああ、最晩年は古い保守政治家によくある「もうしゃべってもいいや、とぶっちゃけ話を次々してくれてそれが貴重な歴史証言になる」というのをやってくれたのだった。そういう点でも感謝しなきゃいけない。安らかに
https://b.hatena.ne.jp/entry/4713966927152176674/comment/gryphon

これはなんのことか説明しようと思ったが、これを紹介すれば足りるや。

donoso.hatenablog.com

今回このあまりにみみっちいエピソードをきっかけにして、『海部俊樹オーラルヒストリー(上・下)』(政策研究大学院大学、2005年)と『政治とカネ―海部俊樹回顧録』(新潮新書、2010年)を読んだのだが、その身もふたもなさにあっけにとられるような本である。両者の扱うエピソードはほぼ重なっており、いわば後者は前者のダイジェスト版という趣だが、人間関係についての証言の身も蓋もなさ、女性問題についての明け透けさは読み手を困惑させるものがある。

だから金丸さんは「あれ(橋本龍太郎:引用者補足)はこれが[右手の小指を立てる]あるから駄目だ」と言った。「ほんとうにあるんですか」と聞いたら「あるんだ」という。橋本自身も、河野(洋平:引用者補足)と僕とで飯を食ったときには、「残念ながら、おれにはあるんだ」と書う。まあ、僕らも知っておるから、「ああ、そうか」と言ったけれどね。同じことは河野にも言えるんです。河野にも(後略)

いま、ちゃんちゃらおかしいのは、石破茂なんていうのも、当時は一年生か何かで、二年生ぐらいになっておったかな、抵抗勢力だよ…両議員総会でやられたんだからね。うん、石破に。『やるか、やらないかというのが大前提で、それではよく理解できない』なんていうことから始まって、ちょうど橋本龍太郎参議院選挙に負けたときと同じように、ねちっこ〜い理論を振りまいて、上目遣いでしゃべるんだな。ねちぃっとトリモチでくっついたように、ねばーっとくる。そして、人を内心小馬鹿にしてさ、こんなことがわからないんですか、というニュアンスを持ちながらしゃべるから。同じ派閥は親分に…(後略)

いや、おもしろいけど他人へのうらみつらみばかり紹介するのもあれだ!!!


このひとが本当に苦悩と苦闘をしたであろう、湾岸戦争のことを紹介しよう。それには、この本が一番いい。

湾岸戦争イラクの全面屈伏に終わって12日目の朝、クウェート政府が新聞に掲載した感謝国リストに、「JAPAN」の5文字は見当らなかった。砂漠の熱戦に130億ドルもの巨費を投じながら、世界から冷笑をもって迎えられた大国ニッポン。無惨極まる「湾岸外交敗戦」の裏には、内部抗争に明け暮れる、霞が関の官僚機構があった―。驚異的な取材力で描く情報ノンフィクション。

だが!
非常に残念なことに・・・・・・これを以前、本当に気合を入れて書いた紹介文があるんだけど、それを書いたのは大昔なので、ワードのバージョンが古すぎて読めないのだ(笑)!!(その後なんとか読めたが、今度はどこにあるのかわからない。検索はできないみたい…?)

いまさら、再度文章をかくのもなんだかなあなので、まずはこういう本がある、ということだけ紹介しておきたい。

表題や内容紹介にあるように、湾岸危機があれよあれよの間に、実際に火を噴く「戦争」になり、世界第二位の経済大国(当時)として国際貢献を求められた日本だが、まったくそれに対応する準備が無く、本当に右往左往した(国際貢献への賛成派も反対派もだ)。
それは間違いなく、海部首相本人の資質以上に、戦後日本がそこを求められる、なんてことを全く想定してなかったがゆえの部分が大きい。
海部本人は三木武夫元首相の薫陶を受けたハト派、とも言われたが、
そういう理念の問題でもなかったのだ。



この本を書いた時の手嶋龍一氏は、まだNHKの敏腕記者。この当時…湾岸危機、湾岸戦争の時はワシントン特派員としてテレビにもでずっぱり、第一のピークを迎えていた(この当時、国際情勢や軍事に関しては専門の季節者が突然TVの顔となり、不思議なアイドル人気も出てきたり、その一方で「こいつらは武器が大好きの兵器オタク!」などとの批判もあった)
m-dojo.hatenadiary.com
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だが、その後NHK内での権力闘争に敗れ、フリージャーナリストに。
その後「ウルトラ・ダラー」などの小説で一躍、フリーとしての知名度もあげて第二のピークを迎えていまに至る。





もう少しだけ、このあとつづく。

解散を最大派閥・竹下派に阻まれて辞任。師匠・三木武夫と同じ道を歩んだが、10数年後の小泉純一郎は突破した…

内閣総辞職
湾岸危機や国連平和協力法案の廃案といった困難はあったが、政権支持率は概ね高水準で推移し、海部は政権運営に自信を深めていく。そして政治改革関連法案の成立に意欲を燃やしたが、国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱が起こった(海部おろし)。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明したため、海部は結局解散に踏み切ることができなかった。また、それまで海部を支持してきた竹下派親小沢勢力が海部の不支持を表明し、宮澤喜一三塚博渡辺美智雄ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明した。これにより、海部を支持するのは自身の派閥である小派閥の河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされた。

1991年11月5日、海部は総理大臣を辞職。在任中は竹下派に手足を縛られ、思い通りの政権運営はままならなかったが、決定的な失政があったわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており[37][38]、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった[39]。


ja.wikipedia.org

自民党の本来の文法でいえば、衆院議員の首を斬る解散に踏み切るには、事前に根回しを済ませておかねばいけない。それができなかったら首相が解散だといっても、閣議が一致しないし、党内でサボタージュされてできるわけがない…これが常識であり、三木もこれで解散が打てなかった。
しかし、憲法上でいえば、解散は行政府たる内閣が決めるものであり「党」は関係ない。
もし閣議で大臣が反対するなら、それを罷免して首相が兼任すれば強行できる……とは、理論上はずっと言われていた。
しかし、それを現実として三木も海部もやらなかった。


ところが2005年の小泉純一郎は郵政改革法案否決を機にそれを行い、しかもそれは世論の支持を受けて、圧勝した。
それを見越したのか、幹事長職に派閥の論理とは別に動く「偉大なるイエスマン武部勤を置いていたのが良かったのか。
いやいや、やっぱりそれだけでは済まない、小泉自身の資質なのだろう。何しろこの時、改革法案反対側に回って結局自民党を離れた亀井静香は解散の前日だか前々日だったか、「小泉が解散なんてできるわけない。我々は勝利した!」と大いに祝杯をあげていたのだから。


では1991年、支持率が相当に高かった海部俊樹が小泉同様に、党や閣僚、支持派閥のどこが反対しようとも、解散を強行したら?「2005年の小泉劇場」が、14年前に前倒しされていた可能性は大いにあった、と見ている。ただ、中選挙区なんだよねこの時は……となると、二重三重に混沌となるし、野党側にも、自民と合従連衡しようという中道政党がいろいろあった。
もしもボックス」があれば見に行きたい世界の一つではある。


その後、首班指名で「自社さの対立候補」に。

自民党離党と復党、政界引退

1994年6月29日、自民党総裁河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名社会党村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。

同年7月18日、公職選挙法235条違反による裁判で参議院議員の新間正次の有罪判決が確定。新間の当選無効に伴う再選挙[40]で野党9党派は労働官僚の都築譲を擁立し、7月27日、海部は都築の総合選対本部長に就任した[41]。対する自民党は国連職員の水野時朗に出馬要請し、党県連会長の村田敬次郎は海部と絶縁する宣言を行った。海部の番頭格だった服部光孝県議も「25年間の縁を切る」と強い口調で述べ、自民党との溝は一層深まった[41]。また、7月27日に海部は自由改革連合を結成して代表に就任している。

同年12月10日、新進党を結党して初代党首に就任。同じ旧愛知3区の江崎鐵磨も新進党結成に参加した。

あれも不思議な政治劇だった。けっきょく復党して自民党で政治生涯を終えたのだから、余計な寄り道だったかもしれないが…ただそれより、彼を呼び込んだ小沢一郎の手腕はやはり大したものなのだろう。
彼は、長続きしないんだが(笑)、世論や民衆に訴える力より、この種のトップ級の個人を篭絡する技にたけているようだ。海部だけではなく、こちらは寸前で翻意したが渡辺美智雄も、首相の地位につけるという画さでさそって離党にほぼ成功しかけたし、いまは共産党志位和夫をかなり篭絡した(笑)
そのへんって何がコツなんだろうか。不思議なもんだね。

そのへんの裏話を、そういえばあまり語ってないところがあったな。それは残念だった。

それでも印象に残る人間だった。安らかなれ。

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サルまん海部首相


※実は当時は、一流紙の朝日新聞に、本当にこうゆうレベルの政治漫画が載ってて(横山泰三「社会戯評」絵だけでなくセンスもすごく古いし面白くない)、これを書いた相原コージ竹熊健太郎だけでなく、呉智英とかがすごく皮肉のネタにしてたのだ。