田中角栄といえば、いまだにファンが多い。新首相選びの時なぞにも必ず引き合いに出されたり、「角さんなら、コロナ対策をこうした」「景気対策はああした」みたいな架空戦記まがいの政治講談もある。
田中元首相逮捕40年シンポ@憲政記念館。『田中角栄を葬ったのは誰だ』(平野貞夫著)出版記念。登壇者は小沢一郎、石井一、佐高信、植草一秀氏等。角栄ブームを郷愁で終わらせてはいけない。現在起きている問題は既に40年前に提起されていたのだ pic.twitter.com/YAMoBVpndu
— Siam Cat_036 (@SiamCat3) 2016年7月26日
ときに、一方で戦後政治の本格的な研究者が書いて、2016年に出版された伝記の新書がある。
ここの、終戦直後の記述が見逃せない。
「田中角栄は一兵卒として戦争を経験したから、弱者の苦しみが分かるハト派」という人もいるが……ちなみに、田中の軍籍期間は1939年召集、1940年に肺炎で倒れ闘病、1941年10月には帰郷している。
終戦時、朝鮮半島にいたのは田中土建工業として理研の工場の移設工事を請け負っていたからであります。
そして終戦…
…敗戦が色濃くなった一九四四年末から、理研は満州や朝鮮に工場を移し始めた。田中は、王子神谷町にあったピストンリング工場を朝鮮の大田に移設する工事を請け負った。理研にとって、ピストンリング工場の移設は最大の仕事だった。田中は、「でけえ仕事をくれ」と理研幹部の星野一也らに何度も頼み込んでいたのである。
田中は翌年二月、六人の会社幹部とともに朝鮮入りし、新義州、碧洞、満浦鎮、城津などで木材を買い集めた。八月九日にはソ連軍が参戦し、満州国に進攻する。ソウルで終戦を迎えた田中は、「その日現在における私の在鮮全財産と工事材料や現地投資の一覧表を示して」寄付すると現地職員に宣言し、釜山から海防艦で引き揚げたと回想する。海防艦とは、主に海岸防衛に当たる軍艦を指す。
女性と子供を優先するはずの海防艦に乗れたのは、乗船名簿の「田中角栄」が崩し字であり、「田中菊栄」と誤読されたためだと田中は記している。だが、ちょび髭をはやした田中が、菊栄という女性に間違われるはずもない。
これには、理研幹部の星野の証言がある。星野によると、「工事費二千四百万円を軍票で三回にわけて払うことにし、二回分、約千五百万を送ったところで終戦となった。田中は京城「植民地時代のソウル]へ走り軍票を現金に換えたハズだ」という。当時の二四〇〇万円は、現在の一五〇億円に相当する。そのうちの二回分を換金していたとすれば、田中は敗戦に乗じて大金を手に入れたことになる。しかも星野によると、田中ともう一人だけが、海防艦で先に帰国したという。田中は海防艦に乗り込むため、金の一部を袖の下に用いた可能性がある。女性に間違われたという田中の回想よりも、星野証言のほうが自然だろう。星野は、田中の政界進出を支えた人物である。
実はこの話、もっと早く新書で出ていた元新聞記者・早野透氏の本でも読んだのだから、知る人ぞ知るよ。だが誰も、論点にしないだけ…
だれもが切実に祖国への帰還を熱望し、治安状況的にも現地でのリスクが高まっていた(実際に被害もあった)からこそ、女性と子供が優先されて、当初の帰国船で優先されていたのだ。
その中で、なぜか例外的に壮年の乗り込む壮年男性。名前がまぎらわしくて女性に間違えられた?? それはあまりにも説得力が……
不正な形、カネの力での乗船が事実だとしたら、よく言われる満州からの軍幹部のいち早い脱出と同じようなもので、これは間違いなく、人物評価、歴史的評価に影響を与えるのではないか。
そういえば、これは徳岡孝雄氏の指摘で…アメリカのクリントン大統領の当選(1992)の選挙時、クリントンが徴兵逃れをしていたのではないか、との批判があった時、「日本も戦前、太平洋戦争で軍隊経験がないというか徴兵逃れにしか見えない政治家がいるのに、それは不問とされている」という指摘をしていて、それは宮澤喜一を指していたと記憶している(というかそれ以前の総理は、多くは戦時中すでに徴兵年齢より上の方が多いしね)。大蔵省の仕事をしていたとか、いろいろあって一概に言えないところだが。
戦後となれば当然、あなたは軍隊で祖国に奉仕したかは問われない。
問われたら、令和のいまは「ヒゲの隊長」佐藤正久か中谷”レンジャー”元しか資格がなくなるしね(笑)
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このひとが元レンジャーって知ってた?ヘビを食って生き延びるすべを知っているはず
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