高校で「ひとり作家を選んで文章を書け」という課題があり、「ただし作家本人に話を聞くのはやめるように」と教師が釘を刺すので「?」と思ったら「君達の先輩で井伏鱒二の家に押しかけたやつがいた」と言うので笑った。確かにその数年前まで井伏鱒二存命で、荻窪でウロウロしていたと目撃報告がよく。
— 川本直 (@vidalianjp) January 30, 2021
家に押しかけやすい作家っているのかな。太宰も井伏鱒二の家に押しかけたし。これがたとえ存命でも三島や、まだ生きているけど大江の家に押しかけるやつっていうのはそういないと思うんですよ。
— 川本直 (@vidalianjp) 2021年1月30日
反響などがまとめになっている
togetter.com
自分が、これにつけたリプツイート(https://twitter.com/mdojo1/status/1355962386578984960 )を再構成して置く。
いつまで有った文化なのでしょうか、メディア未発達の時代には「偉い人に取り合えず会いに行く」という風習もあったようですね。
夏目漱石は面会希望者が多すぎて、じゃあ面会日に一度に会おう、と「木曜会」が生まれたとか。
※画は香日ゆら氏 @kouhiyura の「先生と僕」
この漫画、もとは4巻の大版だったが今は再構成され文庫本になっているようです。
先生と僕 夏目漱石を囲む人々 青春篇 (河出文庫 こ 23-1)
- 作者:香日 ゆら
- 発売日: 2018/11/06
- メディア: 文庫
- 作者:ゆら, 香日
- 発売日: 2018/12/06
- メディア: 文庫
作者さんのアカウント
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日露戦争で参謀だった小笠原長生は、若い時分に清水港での砲撃訓練時、広瀬武夫から「清水に行ってるなら、なぜ次郎長に会わない?俺が紹介状を書いてやる」と言われ面会し、確かに超一流の人物だ、と感銘を受けたとか。これも「偉い人と面会し大いに学ぶ」風習でしょうか。
これは過去記事から引用してみよう。
私のみた清水の次郎長
…明治二十三年に、私は海軍少尉で“天城”という艦に乗組んでいた。天城』はその当時の砲術練習艦で、練習場所は静岡県の清水港外であった。今日ならば清水港のような狭い場所で艦砲射撃の稽古などは出来ないが、その時分の大砲だから、清水港で充分間に合ったのである。”天城”は 毎月一遍ずつ清水港へ行って、砲術の練習をしていた。
練習を了えて清水から横須賀に帰った日、私が水交社で夕食を摂っていると、そこへヒョッコリ、 広瀬武夫がやって来た。後に日露戦争のとき、旅順港閉塞のため壮烈な戦死を遂げて、軍神に祀られた広瀬である。私は同じ部屋に起居したこともあり、広瀬とは非常に懇意にしていた。
「やあ、小笠原、久しく会わなかったな。」「うん、広瀬か。「近頃どうしとるか。」「どうもこうもない。一ヶ月に一度か二度清水港の沖合で艦砲射撃の練習をやってるだけだ。面白いこともないよ。」「なに? 清水港へ毎月いっておる?」広瀬は急に目を輝かして身体を乗出して来た。「清水港がどうかしたか?」「おい、小笠原。清水港へ何度もいったなら、次郎長に会ったろうな?」「ジロチョウ? そんなもの、知らんな。無論、会ったことはない。」
いきなり広瀬が大声で怒鳴った。広瀬という男は、実に大きな声を出して、人をびっくりさせる癖があった。「貴様は次郎長を知らんのか。清水へたびたびゆきながら、次郎長に会わんという間抜けがあるか。」「なんだ、バカに力を入れるなあ。」「次郎長は偉い男だぞ。小才子ばかりうようよしとる当世に、ああいう大木のように線が太い男がいるかと思うと、実に愉快じゃ。人に滅多に惚れぬ山岡鉄舟だって、次郎長にはゾッコン惚れこんどるんじゃ。嘘だと思ったら、貴様、いって会ってみろ。俺が一つ紹介してやる。」その場で早くも広瀬は紹介状を書いた。何か判らないが、強制的に紹介状を持たされ……
(略)…私もこれは大人物かも知れない、会ってみてもいいな、と思った。それから、『天城』に帰って、同僚の連中に話したところ、俺も会いたいと、二、三人がいうので、二、三日後に私は同僚と共に次郎長の家を訪れた。
(略)
私は広瀬からの紹介状を出し、挨拶をしてから、「われわれもぜひあなたの話を伺いたいと思って来ました。」
と言った。七十一歳と二十四歳だから、祖父と孫くらいの隔たりがある。
「ああそうかね。じゃ、何か話すかね。」
それから話し始めたが、私を呼ぶのにお前さんと言ったり、あなたと言ったり、先生と言ったり、勝手次第なことを言う。話に興が乗って来ると、まず羽織をぬぎ棄て……
- 作者:文藝春秋編
- 発売日: 2009/11/20
- メディア: 単行本
そう、「紹介状」という文化もある。場合によっては、さすがにそれは必要というもあるようだ。
そういう点ではある種のサークル、階級内での話…という部分も、もちろんあるんだけど。ただ、それでもこうやって、何かをなして世に聞こえた人にあって話をしたい、といって直接面識のない人がやってくる……それ自体がひとつの文化の「型」としてあったのは間違いないようです。
前述の小笠原は、確かにそれが趣味だったようで。
私は少年時代から名士に会うのが好きで、一種の道楽というか、或る人には「それがお前の病気だ」と言われるくらいである。六歳の時に家督をついで、明治天皇さまに拝謁し、天盃を頂戴したのだが、その時であったか、或いはその後に参内した時であったか、西郷隆盛を見たことがある。征韓論以前のことだから、明治六、七年のことだ。榎本武揚にも会った。私が後に海軍へ入るようになったのは榎本さんの勇姿を見たのが動機である。
イギリスへいった時にはキッチナア元帥にも会ったし、ロバアト元帥にも会った。八十七歳の今日までに会った人の数は、おそらく幾千という大変な数である。
その背景にはもちろん、メディアの未発達な状況では「会って話す」が最良のコミュニケーションツールだった、という単純素朴な話がありましょう。
江戸時代では高山彦九郎が、林子平が、吉田松陰が、旅から旅をして、新たな紹介状をそのたびにもらって(Aに会ったらAの知人でこれだ、という人Bを推薦してもらい、その人への紹介状をAに書いてもらうのです)人に会い、話をして、それを記録して本に、手紙に書いた。そういう「人間メディア」に会った人も、それによって世に知られるし、またその人のことを書き残す。
だいたい、今は娯楽趣味のツールが無数にあるから人に会わないでも24時間が埋まるが、それが無い時はやっぱり必然的に会話談論が娯楽になる。そういう時はコミュ障だなんだではなく、普通の風景なので、逆にいえば娯楽趣味が増えれば、会話や人と人のコミュニケーションが量的に減るのは、それはそれで普通の現象だと思いますよ。
あと、「書生」「学生」や上の小笠原のような「青年将校」は、かつてはそれだけで一種のパスポート、特権であり、そういう前途有為な若者に面会を希望される、というのはされるほうにとっても名誉で楽しみであったようです。
そういえば立花隆が東大でゼミを持った時に、これは最初の話題の高校とは正反対に「誰か有名な人に会ってレポートをかけ」という課題を出して…「東大生が礼儀正しく『立花隆ゼミの課題なのでお会いしたい』と手紙などで依頼すれば、たいていの人はあってくれるはずだ」と(笑)。さすがに赤門ともなれば、まだ古い文化が延長して存命していると(笑)。
「見聞伝」というサイトが残っている。
kenbunden.net
kenbunden.net
インタビュー集もあった
二十歳のころ〈2〉1960‐2001―立花ゼミ『調べて書く』共同製作 (新潮文庫)
- 作者:隆, 立花,東京大学教養学部立花隆ゼミ
- 発売日: 2001/12/01
- メディア: 文庫
インタビューを受けた側の糸井重里氏が書き残している
https://www.1101.com/hobobook/mihon05.html
そもそも!!
藤子不二雄コンビだって、手塚治虫の自宅に押し掛けたわけだから(ちゃんとアポはとってますよ)。
『まんが道』の手塚先生。「こ、これが本物の手塚治虫だ!!」。純金で出来てるし背景は銀河だし冷静に見たらオカシイんだが、なにせ本物の手塚治虫だからな。 pic.twitter.com/hn4Dr4sPfy
— ろれるり堂 (@rorerurido) 2018年11月1日
もちろん少年時代からとんでもない才能を持ってて、ファンレターもすごく凝ったものだった(今でも手塚が保存していたものが残っている)藤子だから特別…のようでもあるが、才能無い漫画家でも、これといった目的もなく「会いたい」と希望して、手塚と面会することがあった、と古谷三敏氏の証言。
(略)…高校時代の藤子不二雄がわざわざ夜行列車で上京し会いに行ったように、漫画家の崇拝者も当時から多かった手塚治虫。この日も少女マンガ家がアポを取って面会するというので、その人の漫画を古谷さんに持ってこさせます。
「へたくそだね」
「ストーリーもなってないね」
とさんざんな手塚先生の寸評だったのですが、彼女と母親が会いに来ると一転、さっきまでぼろくそだった漫画の名を挙げて「なかなか面白かったね」とホメます。
これを「ええかっこしいの偽善者」と取るか「若手を褒めて伸ばすサービス精神とやさしさ」と取るか、それはいろいろでしょう。
ただ、わらっちゃうのはその少女漫画家が帰って、ハナシは終わったんだから「つまらん」と思った漫画なんかほうりなげりゃイイのに「どこがおもしろいの?」「わからんな」「うーんわかんねえな」と、わざわざ読み直しては悩んでいるという(爆笑)
- 作者:古谷 三敏
- 発売日: 2010/06/30
- メディア: 単行本
赤塚不二夫と手塚治虫の初対面もあったんで追加しておこう。これも読む限りは具体的な用事があるというより、会いたいがゆえに会わせてもらった、みたいだ。
漫画家の家の「住所」がそのままだファンレターの送り先になる、という文化も、ある時期までありました。
自分は80年代後半、みなもと太郎漫画の本にそういう記載があったのを覚えているが、その時子供心に「え、載せちゃっていいの?」と思ったからその時はすでに異様だったんだろう。ファンロードも「ファンレターは編集部気付だっ」と何度も繰り返してたしね(笑)
それは今なら「ストーカー」と呼ばれるような人たちが多数実害を与えたこともあるんだろう。筒井康隆氏など、面白おかしく書いてたけど、あれは本当はシャレにならんて。
それを避けるには住所・連絡先を非公表にするにしくはなし、であります。
漫画家は「ライバル雑誌の引き抜きを避ける」という意味合いもあるとかないとか。
同じく80年代後半、本宮ひろ志は突然「政治をわかりやすく伝えるルポ漫画を始める!!」と思い立ち、目白の「田中角栄御殿」にアポなしで一人訪問する。
もちろん、警官1ダースにたちまち取り込まれて退散する(笑)。そして漫画は実際に連載され、これをオープニングとしつつ、いろんな政治家に会い続けて、最後は「漫画で田中角栄インタビューをする」をゴールとしました。
これは今思えば一種の自作自演で、それなりの手続きを踏んでいけば本宮ひろ志レベルだったら普通に田中角栄に会うぐらいはできたはずだ。
あえて、そういう「突然訪問、警官が阻止」という状況を作って(そもそも、本当にしたのかどうかも怪しい)、そこから話をすすめた気もしないでもない。
おー、ここでは1話がまるまる試し読み可能だ。
dokusho-ojikan.jp
何にせよ、政治家でも文学者でも、その昔は今より多少は「気軽」に、普通の人が会いに行くという、そんな習慣があり、それは時代とともに終焉した。
ちょっとさみしくもあるが、
その代わりにSNSや動画でリプを送ったり送られる、そんな手軽なツールもできた。
人と人のコミュニケーションは、こうやって変わっていくようでもあり、変わらないようでもあり。
そういえば、水道橋博士は故百瀬博教氏に「人との出会いに照れるな。」という言葉を送られ、積極的にさまざまな人間と出会うようにしていたという。
(了)