- 作者: 文藝春秋編
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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証言者は
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「坂の上の雲」にも登場する人で、広瀬武夫の親友のひとり。
で、1958年没なので、著作権は終了している。ゆえに転載を思いついた。
すっごく個人的に面白かったのは、日本漫画史上屈指の名作「坊ちゃんの時代」2巻「秋の舞姫」で、広瀬武夫と清水次郎長が、とある縁で同じ場所に登場してるのね。
- 作者: 谷口ジロー;関川 夏央
- 出版社/メーカー: 双葉社
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- 作者: 関川夏央,谷口ジロー
- 出版社/メーカー: 双葉社
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これはとても面白い伝奇的想像力だなあ、と感心してたんだけど、実はリアルな歴史の中でも、広瀬武夫と清水の次郎長は親交、交友があったと!
というか、文章を見てわかる通り、小笠原は広瀬から紹介されて清水次郎長と会ったのだから。
以下、上記の本から。誤字脱字、校正不備はご容赦。
私のみた清水の次郎長
明治二十三年に、私は海軍少尉で“天城”という艦に乗組んでいた。天城』はその当時の砲術練習艦で、練習場所は静岡県の清水港外であった。今日ならば清水港のような狭い場所で艦砲射撃の稽古などは出来ないが、その時分の大砲だから、清水港で充分間に合ったのである。”天城”は 毎月一遍ずつ清水港へ行って、砲術の練習をしていた。
練習を了えて清水から横須賀に帰った日、私が水交社で夕食を摂っていると、そこへヒョッコリ、 広瀬武夫がやって来た。後に日露戦争のとき、旅順港閉塞のため壮烈な戦死を遂げて、軍神に祀られた広瀬である。私は同じ部屋に起居したこともあり、広瀬とは非常に懇意にしていた。
「やあ、小笠原、久しく会わなかったな。」「うん、広瀬か。「近頃どうしとるか。」「どうもこうもない。一ヶ月に一度か二度清水港の沖合で艦砲射撃の練習をやってるだけだ。面白いこともないよ。」「なに? 清水港へ毎月いっておる?」広瀬は急に目を輝かして身体を乗出して来た。「清水港がどうかしたか?」「おい、小笠原。清水港へ何度もいったなら、次郎長に会ったろうな?」「ジロチョウ? そんなもの、知らんな。無論、会ったことはない。」
いきなり広瀬が大声で怒鳴った。広瀬という男は、実に大きな声を出して、人をびっくりさせる癖があった。「貴様は次郎長を知らんのか。清水へたびたびゆきながら、次郎長に会わんという間抜けがあるか。」「なんだ、バカに力を入れるなあ。」「次郎長は偉い男だぞ。小才子ばかりうようよしとる当世に、ああいう大木のように線が太い男がいるかと思うと、実に愉快じゃ。人に滅多に惚れぬ山岡鉄舟だって、次郎長にはゾッコン惚れこんどるんじゃ。嘘だと思ったら、貴様、いって会ってみろ。俺が一つ紹介してやる。」その場で早くも広瀬は紹介状を書いた。何か判らないが、強制的に紹介状を持たされたわけで、それでも私は次郎長に会いたいとは思わなかった。
広瀬はあんなことを言うが、わざわざ忙しい時間を潰して訪問するほどのことはあるまい、と思っていたのである。
世間で名士と称えられ、初対面の折には、なるほど偉いな、と感服させられた者でも、二度三度と面会が重なると、だんだんその人の価値が低下してくることが多い。
私は少年時代から名士に会うのが好きで、一種の道楽というか、或る人には「それがお前の病気だ」と言われるくらいである。六歳の時に家督をついで、明治天皇さまに拝謁し、天盃を頂戴したのだが、その時であったか、或いはその後に参内した時であったか、西郷隆盛を見たことがある。征韓論以前のことだから、明治六、七年のことだ。榎本武揚にも会った。私が後に海軍へ入るようになったのは榎本さんの勇姿を見たのが動機である。
イギリスへいった時にはキッチナア元帥にも会ったし、ロバアト元帥にも会った。八十七歳の今日までに会った人の数は、おそらく幾千という大変な数である。
だが、多くは失望を感じさせる人ばかりで、会うたびに、どことなしに教訓を得るとか、感銘を受けるという人は滅多にない。
私が今日までに会った名士の中で、この人はほんとうに偉いな、と思った人が5人だけある。東郷元帥、乃木将軍、杉浦重剛先生、頭山満、そして次郎長である。この三人は会うたびに値打ちが上っていった。
明治二十三年の十一月、私は「天城」から清水港へ上陸した。久能山へ参詣してみたくなったから、一人でぶらぶらと歩いた。そのうちタ方になって、しきりに空腹を感じてきた。テクテク歩いてゆくうちに、清水街道のわきに葭簀張りの一膳めし屋がある。聴いてみると五十歳くらいの爺さんが何やら料理をして、十四、五の娘が給仕をしている。私は早速入り込んで食事をした。
食っていると、ほかに客もいないし、その爺さんは話好きだと見えて、そばへ来て私に話しかける。いつか話が次郎長のことになった。ちょんまげをゆった爺さんは、熱心に次郎長のことを話して聴かせる。
「さっきから、次郎長次郎長というけれども、一体、次郎長っていう人は偉いのかい」
と訊いてみた。すると、爺さんは怒った顔を見せて、
「偉いのか?とんでもねえ。そりゃア大したお方でさあ。あんな偉いお方は、当世めったにあるものじゃねえ。」
「ふふむ、そんなに偉いのか。」
「そりゃもう神様みたいなお方です。明治十七年の1月に或る間違いから捕まえられて、静岡の監獄に入れられなすったが、翌年の九月に大暴風雨があって、牢屋が倒れた。その時は同じ囚人を救けるために、次郎長さんは大怪我をしたくらいで、それから間もなく特赦されたんですが、出てくる時に蒔絵の馬車が迎えにいったもんです。豪勢なもんじゃんありませんか。」
「蒔絵の馬車はヘンだな。紋の付いた馬車だろう。」
「いいや、私がこの目で見たんだから、蒔絵にちがいありませんや。その時の出迎え人の数が多かったこと。静岡から清水まで行列が続いたっていいますからね。」
爺さんの話といい、さきの広瀬といい、次郎長を崇めること神の如くである。私もこれは大人物かも知れない、会ってみてもいいな、と思った。それから、『天城』に帰って、同僚の連中に話したところ、俺も会いたいと、二、三人がいうので、二、三日後に私は同僚と共に次郎長の家を訪れた。
教えられた道を埠頭へゆくと、『末広』という旅館があった。堂々たる二階建ての家で。遠くから見える白壁に末広』と大きく書いてある。これが次郎長の経営していた旅館なのである。
玄関を入ると、目つきの鋭い男たちがいて、なんとなく普通の旅館とは気分がちがう。しかし、こちらは海軍少尉の軍服を着て、短剣を吊っているから、これは珍客と思ったか、丁寧に迎えて、奥の座敷へ通された。「次郎長は只今静岡へ参って留守でございますが、もう帰って来る頃ですから。」
と言われて待っていると、ドスンドスンと畳を踏む音がして、「やあ、おいでなさい。」
と悠然たる態度で一人の老人が入って来た。次郎長だな、と覚った。私はその時まで侠客次郎長の姿は幡随院長兵衛か花川戸助六のように粋な江戸ッ子だと決めていた。ところが,想像は完璧に裏切られて、その姿は粋どころか、田舎めいた着物に紺色の三尺帯を締めて、背は高いが、骨組のがっちりとした堂々たる体?である。角力の年寄といった恰好だが、どう見ても71歳の老人とは思えない。薄くはなっているものの、白髪はほとんどない。大きな鼻、細い目、そして出張った頬骨などが特徴として、すぐに目についた。
身体に比較して顔が大きい。象のような細い目でわれわれをジーッと見るかと思えば、口をカッと開いて話す。つい最近、上田吉二郎という俳優が、こんど次郎長を演ずるから話を聞かしてくれ、と言って来たが、会って見て、これは次郎長に似た顔だと思った。私は広瀬からの紹介状を出し、挨拶をしてから、「われわれもぜひあなたの話を伺いたいと思って来ました。」
と言った。七十一歳と二十四歳だから、祖父と孫くらいの隔たりがある。
「ああそうかね。じゃ、何か話すかね。」
それから話し始めたが、私を呼ぶのにお前さんと言ったり、あなたと言ったり、先生と言ったり、勝手次第なことを言う。話に興が乗って来ると、まず羽織をぬぎ棄てた。次に帯を解く。着物をぬぐ。しまいに素ッ裸になってしまった。すると、女房のおちょうさんが来て着せてやる。また話しているうちに、ぬいでしまう。何度でも繰返した。
次郎長は自分の腹を叩きながら、楽しそうに話し続ける。「この腹に触ってみろ。」
言われるままに触ってみると、石のように硬い。しかも傷痕だらけだ。
「この傷は何んです。」
「これはな、博奕をする時に出来た傷だよ。賭場ではいつどんなことが起るか判らない。だがね、どんなことがあっても、人手に掛って死ぬのは厭だから、もしもの時は自分で死ぬつもりで、いつも短刀を抜いて腹へ当てがってた。それがどうも力が入り過ぎて、時にブスリと刺してしまう。その傷痕だよ」次郎長は大きな声で笑った。
「わしア、今日までに斬っつ張っつもずいぶんやった。しかし、これは善人だと思った者を向うに廻して喧嘩したこともなければ、親孝行だの主人によく仕える者と斬合ったこともない。そういう時には俺のほうから逃げていったもんだ。だから、俺は今になっても寝覚めの悪い思いは一つもない」
これは偉い人間だ、と私は思った。「だがね、この年になると、生きてるものを殺すのは駄目だと、つくづく思うよ。鳥でも魚でも殺すのを見るのは実に厭だ。だから俺の部屋は台所から一番遠い所にしてあるよ。」
とも言った。女房のおちょうさんの話によると、お釈迦さまの言われた三不浄肉、生きているところを見た肉、殺されるところを見た肉、自分のために殺したのではないかと疑える肉、これを絶対に食わないということであった。
次郎長は孫のような年配のわれわれを、同年の友人とでもいうような扱いをする。われわれも無遠慮にいろいろな質問をして、話はいつまで経っても尽きない。「一体あなたは、仲間の中では誰が一番偉いと思ってるんです?」
「それは新門辰五郎だよ。」
次郎長は言下に断言した。
「新辰五郎は偉い。あれは偉いよ。あのくらいの人物は、ちょっといないね。」
よほど深く新門辰五郎に敬服しているように見えた。
「仲間のうちでは新門だが、わしには恩人と呼ぶ人が一人ある。この人はわしが最も偉いと思ってる人だよ。」
「それは誰です?」「山岡鉄舟先生さ」私はハッと思い出した。
「ああ、広瀬から聴いたけれども、あなたは山岡先生から“度胸免状”というものを貰っているそうですね。どんな免状だか、ひとつ見せてくださらんか。」
「よろしい。剣術の免状を貰った人はたくさんあるだろうけれども、度胸の免状を貰ったのは、俺一人だろう。」次郎長は呵々と笑った。
「面白そうだ。ぜひ見せてください。」
「お見せしよう。こっちへおいでなせえ。」
案内されて彼の居間と覚しい部屋に入ると、そこの鴨居に山岡鉄舟の雄勁な筆で、「精神満腹」と書いた大きな額がかかっていた。「これが山岡先生から頂戴した、わしの度胸免状だ。」
山岡先生は次郎長にこれを書いて与える時に、
「これはお前の度胸免状だよ。」と言われたことであろう。「有難うござんす。」と受けた次郎長も、度胸免状のつもりであったろう。しかし山岡先生の書かれた『精神満腹』の語意は、その中には勿論、度胸や胆力の如きものも含まれていたに違いないが、同時に、義に富むとか、難を避けずとか、身を殺して仁を為すとか、正を踏んで畏れずとか、威武に屈せずとか、そういう道徳的勇気の意義が含まれていて、つまりは次郎長その人の人格を鉄舟居士が保証されたものに外ならないと私は信ずる。
「この『精神満腹』の額は、昭和三年の七月、清水の梅蔭寺に次郎長の銅像が立つというので、元の子分や、当時代議士をしていた平野光雄君などが私の所へ来て、いろいろと次郎長の話をした。その時に私がその額の話をしたところ、それは大切なものだ、といって、清水へ帰って探したが見付からない。大騒ぎをやって探した結果、幸いにも孫分の一人が持っていると判った。次郎長に貰ったのか、持っていったのかは知らないが、とにかくそれを取戻して、今では次郎長会が宝物として保存している。
初めて会った晩、われわれはついに「末広」で夜を徹して、次郎長の話を聴いた。実に”大きな人物”であると思った。次郎長といえば、単に侠客として華やかな行動をした時代のことのみが伝えられるようだが、晩年の平和的な次郎長の姿こそ、忘れてはならない真の次郎長の姿であろう。
女房のおちょうさんの話によると、次郎長は外出する時、いつでも財布にうんと金を入れてゆく。着物を何枚も重ねて着てゆく。これは道で困っている人を見た時に与えるためである。財布の金をやり尽し、羽織をぬいでやり、着物をやり、襦袢一枚、或いは素ッ裸になって帰って来る。「素ッ裸で帰って来るんだから、見っともない。」と、おちょうさんは呆れたような嬉しいような顔で笑った。私が『末広』を訪れて、いざ艦まで帰ろうとする時、
「俺も用があるから、一緒にそのへんまで行こう。」
と、連れ立ってゆくことがある。すると、次郎長の姿を見て、遠くの方から子供たちが寄って来る。たちまち何十人もの子供たちに取巻かれてしまう。
次郎長はニコニコ顔で、ふところから蜜柑だの菓子を取出して、「そら来た、そら来た。」と一人ずつ与えては頭を撫でてやる。実になごやかな楽しい光景である。そこで私は艦へ帰ってから、「子供らに取巻かれたる次郎長は 袋を持たぬ布袋なりけり」 という、和歌だか何だか判らないものを作って、それを次に訪問した時、次郎長に見せると、
「ワッハッハッハ」と大声で笑ったきり、何も言わなかった。しかし御機嫌はたいへんよかった。私は清水へゆくたびに、ほとんど毎回、次郎長を訪ねるようになったが、翌明治二十四年のことである。「軍艦というものを、一度ゆっくり見たいと思うが、お前さん、見せてくれるか。」次郎長がまじめな顔で言い出した。「いいとも。見せてやるとも。大いに歓迎するよ。」
それから日取りを決めて、次郎長歓迎の準備にかかった。軍艦では大尉以上が士官室に入ることを許されていて、われわれのような少尉や中尉は士官次室だけしか使えない。しかし、次郎長はわれわれが歓迎するのだから、士官次室に招待してやろう、ということになった。
ところが、この計画がいつの間にか、先任将校や艦長の耳に入った。「清水の次郎長が艦を見に来るそうだが、ほんとうか。」私は艦長に質問された。「来ます。約束をしました。」「それなら、お前たちだけじゃなくて、われわれが歓迎してやろう。」
困ったと思ったが仕方がない。承知して、当日はうんと御馳走を作って待っていた。
次郎長は子分ただ一人を連れて、「天城」へやって来た。その子分は入谷清太郎という、今も健在の男だが、
「あの時は私が親分についてゆきました。」と、あとで言っていた。
私が案内して天城の艦内を見せたところ、実にこまかく見るので驚いた。便所や炊烹所までも丁寧に見て廻る。そのうち大砲のそばへいって説明してやると、黙ってジーッと聴いていたが、説明が終ると、「こんな立派なものを天子様からお預りしてるお前さん方、これは戦にでもなったら、義理にも死ななきゃならんね。」と言った。その「義理にも」という言葉が非常に面白いと私は思った。艦内を一巡して、士官次室で一休みというので、若い士官が取巻いて話をしたが、その時、次郎長はこういう話をした。
「軍艦を見ると思い出すんだが、あれは明治元年の九月だったよ。公方様方の軍艦が一艘この清水の港へ入って来たんだ。そうすると、そこへ官軍の軍艦が三艘も突然やって来てね、ポンポンやり出したじゃないか。三機に一機だから、かないっこはないやね。公方様方は散々にやられたわけさ。とうとう沈められて、乗組員はみんな戦死しちゃった。戦さが済んだあと、海の上に死骸がプカプ力浮いている。だが、後難を恐れて誰も手をつけて片付ける者がいねえ。ほうっておくもんだから、だんだん勝ってゆくのが見える。気の毒で見ちゃいられねえ。それから俺は考えたよ。徳川方の人にしても官軍の人にしてる、みんな天子様の御家来で、同じ日本人に違いない。どっちがいい、どっちが悪いじゃねえ。死骸をそのままにしておくとは何事だ。死んでしまった者に敵も味方もねえ筈だ。よし、俺が引受けて葬ってやろう。もしも、次郎長という奴は怪しからんことをする、というのでお咎めがあったら、俺はお裁きを受けてもいい。構わねえからやっちまえ、と思って、死骸を拾い上げて葬ってやったのさ。ところが困ったね。回向をしてやろうと思ったが、大勢の人だし、宗旨が判らないじゃねえか。仕方がないから各宗を集めてやれと思って、清水港四里四方の寺の坊さんをみんな集めちゃった。何百人という坊さんが来てくれたが、いい気持ちだったね。あんな気分持ちのいいことはなかったよ。」これは幕府の軍艦咸臨丸が、官軍の富士山丸、飛龍丸、武蔵丸、のために撃沈された事件のことで、次郎長の生涯で特記すべき一事である。次郎長はこの話をする時、いかにも法悦にひたったような、やすらかな顔をしていた。
話題を転じて次郎長は、「お前さん方は一体どこで本を読んだり戦さのことを研究するんだい?」
と質問した。若い士官連中、判らないから黙っていると、彼はおもむろに自分の肚を指して、「ここでやらなくちゃいけないよ。」
と言った。次に頭を指して、「ここじゃダメだ。本は目で読んだってダメだよ。わしなんぞは、悲しいことに学問がなかったから、こんな一生を送っちまったが、もし、わしが学問をしていたら、今は総理大臣になってたよ。」
そんな話をしているところへ、士官室から呼びに来て、次郎長は御馳走されて、大満足で帰っていった。
次郎長は居間に、偉人の写真や画を飾っていた。西郷隆盛、榎本武揚、山岡鉄舟などはいいとして、ナポレオンやワシントンまでズラッと並べてある。
なんだ、次郎長ともあろうものが、やっぱり英雄崇拝家なんだ、と思ったから、「あなたも英雄崇拝家ですね。」と言ってみた。
「何んだ、英雄崇拝って。」「英雄を偉いと思って、その写真なんかを飾っているのでしょう。」「いや、そうじゃない。」「じゃ、何んのために飾ってる?」「ワッハッハ、これはね、風邪でも引いた時に、現むために飾ってるのさ。」「読む?」「そうだよ、頭痛がしたり熱があると思った時には、こいつらが俺の敵だと思って、力を入れてウームと睨んでると、そのうち汗が出て来て風邪が治るんだよ。」次郎長は英雄豪傑を葛根湯かアスピリンと心得ていたらしい。私が次郎長の家へいった頃、彼の家にはいつでも大勢の食い倒しがいた。中にはホンの僅かな縁故を辿って来ている者もあるし、一家三人連れで食客になっている者もあった。常に居候が絶えないのである。「きょうは家の中がずいぶん賑やかだな。」
と言ったら、おちょうさんが、「いま二十組もいるんですよ。」
と言ったことがある。「あれはおじいさんの道楽ですからね、好きなようにやらしておきますよ。」「お金がたいへんでしょう。」
おちょうさんは笑っていた。昔の子分が貢ぎもしたろうし、富士の裾野や三保の松原を開墾したから、そこからも相当の収入はあったろうと思うが、次郎長の使い方が烈しいから、おちょうさんは家計の切り盛りに苦労していたらしい。
私の会ったおちょうさんは三代目で、その姉さんの二代目おちょうという人が偉かった。次郎長が二長町の妓楼で子分と遊んでいると、甲州の黒駒勝蔵の子分が襲って来た。そのことを知ったおちょうは、きょう親分のさしていった刀は、いい刀じゃない、刀が悪くちゃ働けない、といって、いい刀を何本か抱えると、斬合っているまん中へ飛込んで、次郎長に刀を渡したという。そのくらいしっかりした女だったが、ついに殺されて悲惨な最期をとげた。次郎長はそのおちょうの話をする時に、きまって涙ぐんだ。さすがの次郎長も、悲しさがこみ上げてくる様子で、聴く者まで涙を誘われたものである。
私の今いったのはそのおちょうの妹だが、これも男勝りの女であった。次郎長は三人の女房を持ったが、みんなおちょうと名乗らせた。因みに、講釈師でも小説家でも、次郎長の女房の名をお蝶と書くが、あれは間違いで、おちょうかお長かでなければならない。
私が訪ねるようになった頃は、もう大政も小政も生きてはいなかった。森の石松などは無論のことである。ただ増川の仙右衛門が健在だったらしいが、私は会う機会がなかった。今から考えると、子分のことをいろいろと聴いておけばよかった、と後悔するのだが、次郎長は子分のことをあまり話さなかった。ただ一つ、
「或る時のこと、俺が一人で料理屋の二階に寝込んでいるところを、大勢のやつに取囲まれてしまった。どうすることも出来ない、よし、先手を打ってやれと、いきなり二階から大勢のやつらのまん中へ飛び下りたら、やつらはびっくりしてマゴマゴしてるんだな。そこを斬っ払って逃げたことがあるがね、敵の虚を衝くというやつさ。こういうことにかけちゃ、小政は大したものだったね。こっちは小人数で大勢のやつらと渡り合って、味方がタジタジとして来たんだ。こいつはいけねえと思った時、小政のやつ、いきなり群がる相手の中に斬り込んでいってね、向うの頭分らしいやつの右手をひっ?んで、腕の附け根からバッサリ斬り落したじゃねえか。偉いやつだなと思って見てる俺の方へ、斬り落した片腕を高く差上げて見せてね、親分、どんなもんです」と言ったが、その腕はまるで紅生姜のようだった。これを見て相手方はすっかり胆をつぶしてね、バラバラ、みんな逃げていっちゃったよ。その時ほど気持ちのよかったことはないね。今思い出しても、小政の勇ましい姿が目に見えるようだ。」言い終って次郎長は、目をつぶった。昔を思い出したのであろう。
次郎長には女の子が一人あった。私がいった頃、十六かそこらだと思うが、体格のいい娘で、太い丸太ン棒で水桶を担いで、風呂桶などはたちまち水を張ってしまうほどの力持ちであった。「こいつが男だといいんだがなあ。肝心なものを忘れて来やがって。」「と、笑いながら言ったことがある。明治二十六年、日清戦争の起る前の年だが、私は”八重山”という艦に乗っていた。朝鮮に事件が起ったというので仁川へ急航したところ、清国からは軍艦を三艘も派遣して気勢をあげたりしている。そこへ次郎長が死んだと知らせて来た。残念ではあったが、勿論葬儀に列することなど出来なかった。
客清水次郎長は、明治二十六年六月十二日の正午、七十四歳で永眠したのである。清水の梅蔭寺に葬られ、翌年建立された墓碑は「客次郎長之墓」と榎本武揚の書が刻んである。ここまで書いた時、一人の来客があった。森の石松の菩提寺大洞院のある遠州森町のひとである。その話が面白かったから、附加えておこう。
森の石松の墓碑は私が書いたもので、私が施主となって法要を営んだこともあるくらいだが、その客の日く「どうも困りました。」「何が困るんです。」「せっかく書いていただいた石松の墓石を欠いて持ってゆく奴がいるんです。」「ただのいたずらですか。」「いや、あの墓石のかけらを持っていると、勝負事に勝つというんです。」「これは驚いた。」「しかも最近は字の所を欠いてゆくと儲けが大きいといって、だんだん字の所が無くなって来ました。」「無くなっちゃ困るな。」「それからも一つ、これは笑い話ですけども、寺の境内で寿司屋を始めたいという人があって、つい最近、店を出しました。」「お寺で寿司を売るとはヘンでしょう?」「私もそう思ったんですが、実は例の浪花節にある。寿司食いねえ、の関係なんです。」私は客と顔を見合せて大いに笑った。
(「文藝春秋」昭和二十八年四月号)
本当はこれ、「青空文庫」にでも投稿?すればいいのだろうけど、校正がいいかげんだし、そもそもどう投稿すればいいかわからないからな…