INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

宗教的な批判や「宗教的象徴を傷つけられた」はヘイトとなるか(「ヘイトスピーチという危害」より)

ヘイトスピーチという危害」なる本を、少し前から読んでいました。

それほど超絶に面白いと言うか、新しい論点がある本…ということでもなかったのですが、いくつか興味深い事実や議論を見つけることができました。

まだ読み切れてないんだけれど、図書館に返却する期限が来たので一番自分の興味と重なったところをメモしておきます。


それは「例えば、ある宗教の信者が自分以外の別の宗教、そして教祖を『その教えは間違いだ、悪魔の教えだ、偽預言者だ!』などと否定する時、それはどこからヘイトスピーチと定義されるのか」という問いに関係します。


文章をいろいろ移せばいいんだけど 手間がかかるので
超簡単に箇条書き要約します。

・人々に不快感を与えることと尊厳を攻撃することの区別は人種主義的ヘイトスピーチより宗教的ヘイトスピーチの方がはるかに難しい。


・これはイギリスの著名な法律家も支持している。 まさにこの国では2006年にその種の法律改正があった。イギリス議会は信者を攻撃する言葉と宗教的信仰そのものを攻撃する言葉との区別をこの法律に挿入する必要があると感じたと言う


・著者はアメリカのティーパーティー運動を例に挙げこういう。
「私はティーパーティーの構成員の見解は多く馬鹿げており社会的に危険であると考えている。しかし Tea Party には公職に立候補し投票を行い投票を数えてもらう権利がある。これらの権利の否定は攻撃となる。しかし彼らの信念を攻撃したり嘲ったりすることは、私も彼らも同様に権利があり日常茶飯時である。この区別を宗教的生活の文脈でもできないと考える理由はない」


ヘイトスピーチ規制は、集団に対する名誉毀損禁止と 解釈される。しかし人々が宗教的名誉毀損について語る場合それはしばしば宗教ないしその教祖の名誉の毀損の意味である単にその宗教の支持者、信者の名誉を毀損することを意味しない。


・もし私たちがその宗教的集団の成員の個人としての存在から切り離された集団それ自体について問題にするのであれば名誉毀損の対象になるものは何もない。




・筆者は議論を要約する。
何百万というここのキリスト教徒たちが名誉毀損に対して保護される権利を持つ。しかしこのことはローマ教皇や聖人が、あるいは何らかの教義が保護されるべきだということを少しも意味しない。 同じように何百万人というムスリムたちが名誉毀損に対して保護される権利を持つ。そのことは預言者ムハンマドやその集団の教義上の信念が、名誉毀損から保護されるべきだということを意味しない。ある集団の成員の、市民としての尊厳は彼らの信仰の持つ地位とは切り離されて成り立つ。預言者に対する攻撃、あるいはコーランにさえ…それに対する攻撃がどれほど不快感をもたらすと思われたとしてもそうなのである。



・したがって私たちとしては「宗教に対する名誉毀損」のような言葉に関しては慎重であるべきであるーーヘイトスピーチを規制する法律の範囲を拡大しようと望む人々によってその言葉が用いられることに関して慎重であるべきである(反対する人々によっても同様だ)


・最近のある事件がこの点の好例になっている。
国連総会や人権理事会は宗教的名誉毀損を糾弾する決議に関してこれまで何度か投票を行ってきた。2009年3月26日にも人権侵害の一例として「宗教に対する名誉毀損」を糾弾する人権理事会決議が採択された 。”サウジアラビア”などの推進によって、だ。


・2005年のデンマーク漫画でも、国連は宗教的名誉毀損に反対する動きをいくつも取った。預言者ムハンマドを爆弾を投げつけるテロリストとして描いたいくつかの漫画のことである。その画像は嵐のような講義を引き起こし偉大な宗教の開祖の名誉をこのようなやり方で毀損する人々に法的な(あるいは法の範囲を超えた)措置を求める声が挙げられた。


・この漫画はそれら自体を取り上げてみた場合、ムスリムの人々に対する名誉毀損というよりもイスラム教の批判としてみなされることが可能である。ひねくれたやり方ではあるが「預言者の教えと現代のジハード主義のより暴力的側面の結びつき」をめぐる討論に貢献するといえよう。


デンマークの行政が問題の新聞に対して法的措置を起こさなかったのは、おそらく適切なことだった。この新聞社の行為が賞賛に値するものだと言いたいのではない。 権利があるということは権利の保持者に何としてもこうしなければいけない理由を与えるわけではないしその人を道徳的見地から保護すべきでもない。


・宗教はいつでも不快感が飛び交う領域である。取り分け、多様な信仰の存在する社会ではそうである。 それぞれの集団の信仰は他のどの集団に関しても侮辱的に見える。 キリスト教の「三位一体主義」はユダヤ教イスラム教の一神教主義にとってそれだけで侮辱であるいっぽう、ユダヤ教がイエスを裏切り者と特徴づけたり、イスラム教がイエスを単なる預言者の一人という地位に留めることもキリスト教の側から見れば侮辱に見える。これらを 回避することができるとは思えない。人は宗教によって定義される問題の数々を自らが最善と思うやり方で取り扱う自由を持つ。私はこうした争点に関してサルマン・ラシュディ事件の問題として書いたことがある。


・宗教の物語は敬虔な静けさを帯びることもあれば不敬虔な色彩を浴びることもあるだろう。神聖な儀式や伝統はお香の立ち込める中で行われることもあれば、タバコの煙の立ち込めるコメディクラブで風刺されることもある。


・宗教というものはその公共的表現において先ほど見たような問題に、どんな場合でも不快感を人に与える可能性を持つのでありこの点に関して宗教が毒を抜かれることはあり得ない。 お互いを怒らせることはほとんど、ことの本質に属すると言っても良いのである。


・他者に不快な思いをさせる人も、それにもかかわらず仲間の市民として承認されるべきなのであり、しかもそうした人々は「彼らを排除するために社会的な力が動員される」のを禁止することによって保護されるべきだということだ。


・「自分たちは自分たちの信仰と同一化しているのだ」と主張されることがある。こう言われると、信仰に対する攻撃と人格に対する攻撃の区別が困難になる。「アイデンティティ政治」の文脈では、このことは大げさに言い立てられる。
しかしアイデンティティ政治とは大部分が自分たちが資格を持つ以上のものを要求する無責任な企てである。これは文化的アイデンティティも同じだ


・デモクラシーの政治では、誰でも敗北を受け入れる可能性がある。それでも、つまり多数派の意思でも侵害されない権利を我々個々人は持っている。それがそもそも「権利」である。
しかし、そうであるからこそ政治によっても侵害されない個人の権利というものはどの程度であるかを慎重に制限しないといけない。
その問題は我々のアイデンティティと同一化している、というのは「その問題は政治的に交渉不可能である」という意味になる。「その問題」 と「彼ら自身」を同一化させることが本当に必要であるかを考え直す責任があるのだ。


エド・ベイカーは、「信仰の自由」の放棄は「自分の皮膚を脱げ」と要求するようなもの、とした。それはどこまで拡大できるのか。


・私はイエスキリストは神の子であり人類の救済者だと信じている。 そう信じる私の権利は社会の核心的利益のひとつである。だがこの見解が決して反論されることも笑いものにされることもない社会環境を、要求する説得力があるだろうか。この議論は宗教的信仰をアイデンティティと結合させることによっても回避されない。


・ただ、何人かの人々はこの問題で疑問を提起してきた。懸念の一つは「尊厳」がふわふわしたおぼろげな観念ではないかということだ。 クリストファー・マクラデンという人物はその批判者の一人である。 私はその立場を取らない。懸念に対しては「慣れろ」以外に言うべきことはない。



以上は第5章で論じられた事柄の我流のピックアップである。

ついでにメモしておきたいけど、第6章ではロナルド・ドウォーキンと、エドウィン・ベイカー という二人の名前を「最も手強いヘイトスピーチ規制への批判者」としてあげ彼らの考察を批判的に検証する章立てとなっている