きのうの記事
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についたコメントより。
ちなみに5月19日(旧暦)なら「桶狭間の戦いから460周年」も上がらないとおかしいですな!(笑)
杉谷善住坊の狙撃からジャスト10年前であったという奇遇…………。
id:gryphon
へえ!それはびっくりだ。キリとしては善住坊事件のほうがキリがいいけど、事件としての知名度は比べ物にならないから、なにかの行事があるのかな
杉谷善住坊も不運な男で、こんな織田信長絡みの大事件と10年違いの同日じゃ、どう考えても前者のほうに注目が毎年集まる(笑)。
しかし逆にいえばこの日、彼が狙撃と暗殺に成功して信長が命を落としていたら、一種の因縁話として語られていたでしょうなあ…。
そんな中で、ちょっと今川義元についての(俺にとっての)新情報。
このリンク先で使われている、重野なおき「信長の忍び」でも、今川義元はいわゆる、麻呂眉(本当の繭はそり落とし、墨で丸く描いた眉)で、馬ではなく輿に乗っていますね。記述によってはお歯黒もしていたという。
これを、たとえば司馬遼太郎なんかは「公家趣味」に毒されていた、とか「でっぷりと太って馬にも乗れなくなったので輿を使った」みたいに描写していた、と思う。
ところが、
「今川義元公の実像に迫る」という、静岡新聞社の出したムックがあるんだが。
信長が奇襲した際、義元は興に乗って出ていた。興に乗っていた理由は諸説言われてきた。義元は馬に乗れなかったのではないか、公家のような生活をしていたので乗馬の訓練をしていなかったのではないか、など。しかしそうではない。興に乗って出て行ったのは足利将軍家から「あなたは外出する時に興に乗ってよい」という特別な許可をもらっていたのである」。将軍家から特別許可をもらえる条件として幕府に相当な献金をしていたであろうし、そういった繋がりや人脈を持っていなければならなかったろう。
合わせて今川氏は「足利から吉良が別れ、吉良から今川が分かれた」という名門だった。義元としては尾張の田舎大名である織田信長を権威で威圧するために、敢えて馬ではなく興に乗っていたというのが理由だ。(12P)
ふむ、なるほど。
文化や権威―――とくに幕府や朝廷の発する官位がどれぐらい、戦国の世の軍事作戦、戦争において有効だったかは感覚的にはわからない…たしか「信長の野望」の第三弾か第四弾は、茶器や古書の所持で文化度の数字が左右されて、やや違和感があったもんだけど、ただ「権威を示せばいくさも有利になる」というのは、やっぱりあったんじゃないか、と思う。
そういう点では「われらは京と繋がりが深いぞよ」「輿まで使用許可が下りているぞよ」は有効だったのかもしれない。
ちなみに、ここで非常に目立つ「輿に乗っていた」ことは、総大将の位置を正確に把握したい織田の軍隊にとってはたいへんありがたいことだったとか(笑)
のちの「第六天魔王」の強襲を受けてまさかの討ち死にとなった今川義元だったが、最後は襲ってきた服部小平太に、自ら抜刀し手傷を負わせ、「東海一の弓取り」の名を証明してみせた。。
静岡にかつてよく見られたオハグロトンボは、今川義元の霊の化身である…と、戦前ごろまでよく言われていたという。
昨日なし 明日また知らぬ 人はただ 今日のうちこそ 命なりけり (今川義元)