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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

『シャーロキアン』、その成立の歴史※『<ホームズ>から<シャーロック>へ』より

計4回にわたって紹介することになった『<ホームズ>から<シャーロック>へ』という本の書評(なのか?)、今回で一応締めくくり。興味深かったところを、メモのように箇条書きにして残しておきます。

・ホームズ物語は処女作「緋色の研究」ではさしたる反響を得られなかったが、アメリカの「リッピンコット」誌から要望を受けて続編「四つの署名」が完成した…というのは有名な話だが、最初の緋色の研究を読んだアメリカのタバコ業者から「ホームズが書いたタバコ140種類の牌の違いについての論文をどこで入手できるのか」という問い合わせが来たそうな。

・ホームズの代名詞である鹿撃ち帽(ディアストーカー)は、原作ではそれをかぶっていると一度も明示されたことなく、挿絵家のシドニー・パジェットのチョイスであることも有名。ただパジェットとしては当時の常識として「田舎や郊外へ出向く時の服装」としてこの帽子をかぶって行く…そういう認識で書いているのだそうだ。 大都会ロンドンの街中でこういう帽子をかぶるのは「愚か者か、最近やってきたアメリカ人がこれ見よがしにかぶる類」の行為なんだって。

・緋色の研究を評価して、ホームズ物語を初回打ち切りにさせなかったアメリカだが、意外やイギリスで大人気の引き起こした短編集「シャーロックホームズの冒険」の方は、通信社を通じて地方新聞に配信されたものの、全く人気がなかったそうだ(その後徐々に人気上昇)

コナン・ドイルはすでに「冒険」の最終話でホームズを殺すつもりだったがお母さんメアリに怒られ、そのアイデアはお蔵入りになり「回想」でのご存知・ライヘンバッハの一幕まで延期されることになった。 逆にお母さんのアイデアで「ぶな屋敷」事件が描かれたとか 。

・ホームズがこれほど人気が続く理由としては、作品が売れた後に程なく―まず、アメリカで舞台化されたことにもある。劇を演出し、その役を演じたのが新しい自然主義的演劇の第一任者だったウィリアム・ジレット。「初歩的なことだよ、ワトソン君」という有名なセリフは、原作には登場しないが、ここまで有名になったのはそのジレットの演劇に登場したからだ…そうである。
ホームズのパイプが S字型なのも、その方がセリフが言いやすいというジレットのチョイスによるものだ。
そのジレットが、初めてコナン・ドイルに会った時。ジレットは原作者の前に進み出ると、さっと拡大鏡を取り出してじっくりと観察。そして「疑いの余地なく作家だ」と”名推理”を披露した。

・ホームズ作品は当然ながら、驚異の20世紀に登場した「映画」という新しい娯楽でも早速コンテンツで人気を博した。1921年、そういうホームズ映画の完成集会で老境のコナンドイルは長いスピーチを行い、1度は憎んだこの探偵と、その関係者に改めて深い尊敬と感謝を捧げた 。ただスピーチ冒頭で、彼はワトソンの記述を引用する。「彼(ホームズ)は、いまだかつてこの世に存在したことのない完全なる推理と観察の機械のような人間だ」――そしてこう続けた。「これはワトソンという名のある紳士の言葉でありますが、彼の意見は概してあまり重みがありません」

・このジレットのホームズ劇はイギリスでも公演され大成功を収めたため、ジレット以外に地方巡業のもう1座が作られることになった。そちらで「給仕の少年ビリー」を演じた少年はそのユーモアの才能を見込まれて、出番が増え観客からの人気も日ごとに高まった。これがチャールズ・チャップリンの初舞台である。

・コナンドイルが「空き家の冒険」でホームズを復活させたとき、莫大な報酬でそれを決断させたのはアメリカの出版社だった。その流れで編集部からは「ホームズとアメリカのつながりを強めてもらえないか」という望みがあり、 ドイルはニューヨークのホテルに長期滞在するプランを検討した。最終的には実現しなかったがこの噂はアメリカで反響を呼び、当時の大統領 セオドア・ルーズベルトからも「もしドイルが訪米するなら是非お目にかかりたい」との連絡があったとか。同じルーズベルトの姓を持つフランクリン・ルーズベルトシャーロキアンの一人で、その次の大統領トルーマンとともにベイカーストリートイレギュラーズ名誉会員であったことは有名だが、セオドアのほうも。

1920年代のアメリカでは、紳士淑女が集まり知的なおしゃべりを楽しむ食事会などが流行った(今も多いのかな?アシモフ描く「黒後家蜘蛛の会」ってそういう雰囲気なのだろう)。そんなところでホームズの話題で盛り上がった文人が、依頼を受けてエッセイを書いたり、また「ベーカー街221 B の位置を特定する」 ことに執念を燃やした医者などが、徐々にお互いを知って仲間を結成する。そこからシャーロキアンの運動が本格的に始まっていく。 これはホームズ版の「まんが道」であり「アオイホノオ」でもあるのだ。

・1930年10月20日にニューヨークでラジオドラマ「まだらの紐」が放送される。 演じたのは80歳になっていた元祖ホームズ役、ウィリアム・ジレット。用意された椅子に座らず演じたと言う。スポンサーはインスタントコーヒー会社。
ちなみにワトソン役は、「実際に書斎でラジオ局からのインタビューを受け、ホームズの思い出を語り始める」という設定だった。 暖炉の火かき棒を手にしたワトソンに取材者が「随分古い火かき棒ですね」と尋ね物語が始まった。

・ずいぶんと長く書いてしまったので、そろそろ巻きにはいろう。
ホームズものはコナン・ドイルの死後も、その時々にブームを巻き起こす何事かが起き、その命をつないでいった。 戦前に作られたホームズ役のバジル・ラスボーン とワトソン役のナイジェル・ブルースが共演した映画。

 
・実は別の人が売り込んだアイデアプロットがドイルの手元にあったに過ぎなかったのだが、発見当時は未発表新作だと思われた「指名手配の男」。
 
・”悪名高き”遺族達が作ったコナン・ドイル財団から例外的に信頼され、ドイルの伝記を書いたカー。
 
・イギリスのメリルボーン図書館で企画されたシャーロックホームズ展。――一度は架空の探偵の企画展なんて馬鹿馬鹿しいと議会が否決したのだが「タイムズ」投書欄に、元軍医J・H・ワトソンからマイクロフトからレストレード、あげくにはハドソン夫人まで登場し、実現を支持したのだそうだ。この展示会が実現したあとは英王室まで訪問したが、それ以上に印象的な訪問者としてジョージ・エルダジという、かつてコナン・ドイルに、実際の冤罪事件をすくわれた老人が訪れた、という。
 
・1962年、伝説的シャーロキアンであるベアリング・グールドが書いたシャーロックホームズの”伝記”も評判を読んだ。 
切り裂きジャックとホームズが対決するパスティッシュ「恐怖の研究」は映画にもなった。

・時代の制約とはいえ、ヴィクトリア朝風味なのか「ベイカーストリートイレギュラーズ」は当初、 会員は男性に限られていた。1968年1月ホームズについての知識も情熱も十分な女性達が会合が開かれたレストラン前にて、「女性を会員にして」という抗議デモを行う 。この要望が実現するのはだいぶ後、1991年になるが―――その光景が描かれ感動的である。

・ホームズドラマは旧共産圏でも作られ、旧ソ連では大人気となったそうだ。…なんでロシアでイギリスの物語を?と思う所だが、中国の「西遊記」をシリーズドラマとして放送、海外にも多いに輸出した日本が言うセリフじゃないか(笑)。テレビ番組の国際見本市がモナコ公国で開かれた時この作品も出品されたが、 イギリスの TV局トップが最終日に「主演俳優のリヴァーノフさんは、そちらの打ち上げがあるでしょうが、ホームズさんは是非我が国の打ち上げに参加して欲しい」と声をかけたそうだ(笑)

ロシア版ホームズ完全読解

ロシア版ホームズ完全読解

・ミッチ・カリンという本好きの少年が、シャーロックホームズに夢中になったところすぐご近所に世界一のホームズマニア・コレクターであったジョン・ベネット・ショーという人物がすぐご近所にいることを知る。
勇気を出して電話をかけ、すぐその老シャーロキアンと仲良くなったカリンは 、書斎の留守番役(資料整理)の仕事を担当し、多くを学ぶことになる 。しかし彼が16歳となると、プルーストトマス・ピンチョン、あるいはパンクミュージックに興味を移し、ショーが一生とどまっている「シャーロキアン」の世界を卒業してしまった。数冊ほどのホームズ本をカリンから買い求め、その旅立ちを見送るショー翁の光景は「劇画オバQ」のように哀しくも温かい。だが、数十年後に作家となったカリンは、その思い出と知識を基に一本のホームズパスティッシュを書き綴る。頭の中にベネット・ショーを読者として想定しながら…それが後に映画化もされた「ミスターホームズ 名探偵最後の事件」であった。 この話も感動的だ。

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

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