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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

前田利家って実は明智光秀、小早川秀秋と並ぶ『日本三大裏切り者』かも…、という話

本当はもっと早く書きたかったのだけど、モーニング 2020年18号の「ミツナリズム」より。

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ミツナリズム 前田利家柴田勝家を裏切る

ミツナリズムとは、「真田丸」でもそこが強調して描かれたけど、空気を読まない配慮や協調性ゼロの、それでも軍事官僚として優秀だったという点をコメディタッチで強調する形で、石田三成を描こうという趣向の作品。
そういうキャラクター性も「軍事や戦争を、運営する官僚の立場から描く」というのも、
ど真ん中の王道ではないけど、
ただ、わけがわかんないほど新機軸で前衛的だ!ではない…という、なんというか、いわゆる野球でいえば「ストライクゾーンから球半個ほど外して、落ちてくる変化球」みたいな、ちょっと説明・評価に困る作品。
だけど、歴史が好きだから楽しく読んではいます。
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で、石田三成が軍事官僚として頭角を現したとされる豊臣秀吉vs柴田勝家の「賤ヶ岳の戦い」も当然、登場してる…有名な強行軍に際し「道中で先回りして街道にたいまつ、にぎりめしや水筒を用意した」話とかも出てくるんだけど、そこで突然、最初に紹介した場面が出てきた。


そう、ぶっちゃけ前田利家って、この賤ケ岳の戦いで、柴田勝家軍に属しておきながら……なんですよ。
裏切り。ダブルクロス。恩知らず。反逆のアルバトロス。
なんかキラーカーンが入ってしまったが。



……秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動した(美濃大返し)。 佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。盛政隊を直接は崩せないと判断した秀吉は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。

ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される[2]。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は崩れ、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。

ja.wikipedia.org

その後はこのありさま。

しかし、歴史は生き残ったものが綴る!「加賀百万石」前田家、総力を挙げて歴史の書き換えに挑む(???)

おなじみ、信憑性ではアレな井沢元彦・逆説の日本史だが、ここはけっこう読まれるべき議論と思う(そもそも、オリジナルともいえないのではないか?氏は自己評価に反して、まだあまり知られていない「研究者の説」を紹介する”歴史ライター”としての力量が高いと感じている。)

通説では佐久間盛政の猪武者ぶり、が、柴田軍敗走の直接の原因だということになっている。 ではこの説を誰が言い出したのか?
実は小瀬甫庵なのである。

要するに甫庵はその著「太閤記」で…敗戦の責任は1に命令違反の佐久間盛政、2にそんな盛政に攻撃させた勝家にある、ということになる。
しかし実はその時、最前線の佐久間盛政と本陣の柴田勝家の中間で、軍全体を支える役目の武将がいた。前田利家である

太閤記を読む限り、柴田軍総崩れの責任はあくまで佐久間盛政と勝家にあるーーそう信じている人々にちょっと注目して欲しいのは、太閤記」は結局どこで完成されたか、ということだ。この時代はベストセラーどころか出版業すらない。このようなタイプの著作を書き上げるためにはどうしてもパトロンが不可欠だ。

実はこの時小瀬甫庵は加賀にいた。つまり小瀬甫庵は利家の作った加賀百万石前田家の家臣だったのである。
太閤記のテキストは序文に「寛永2年春」とある。甫庵が息子共々前田家に仕えていた時期に完成されたものである。
(略)
つまり小瀬甫庵は経済的にも道義的にも、前田家の批判は出来ない立場にあったということなのである。
賤ヶ岳の合戦において前田利家・利長親子が柴田勝家軍の一員として果たすべき責任を果たさずいきなり戦線離脱したことは他の史料で確認できる…要するに柴田勝家軍が総崩れとなったのはガップリ四つに戦っている時に有力部隊の前田隊が戦場から突然引き上げてしまったからなのである。


ところが事実を書いてしまうと前田利家・利長親子が、とんでもない卑怯者、臆病者に見えてしまう。
そこで小瀬甫庵は「佐久間盛政が命令を聞かずに飛び出した。その軍規違反を勝家はどうすることもできなかった」という「二人ともバカ」説で話を収めた。つまり小瀬甫庵はこういう形で、前田の恩義に報いたというわけなのである。
(略)
前田家の庇護の下に書かれた小瀬甫庵の「太閤記」が佐久間盛政と柴田勝家に責任を押しつけそれが定説化したとはいえ、それから400年も経っているの未だに「前田利家の責任」に触れられていない日本の歴史が出版されるというのはどういうことか? それは歴史とは人間が作るものであり、それゆえ勝者によって歪められるという事が忘れられているからだ。
前田利家は勝者だ。 彼の子孫は秀吉の豊臣家が滅んだ後も加賀百万石の当主として連綿と続き、明治維新後は「侯爵」となった。…そうした権威の中に入る前田家を例えば国立の大学である東京帝国大学文学部史学科が批判できるかどうかということを考えてみるといい。
また厄介なことに旧大名家は多数の歴史資料を保存していることが少なくなく、歴史研究者にとってはそういう勢力を敵に回すことは損でもある…

しかし大西泰正氏は否定的。「謀反・内通説は想像の域を出ない」、しかし「動向はまことに不明瞭」

前田家研究の決定版とも言われるこの本

ここでも、まずこのような疑念が、その当時からも!!あったという話を紹介する。

…賤ヶ岳の敗戦からわずか数日で秀吉と「一段入魂」との立場を得て加賀郡北二軍を新たに与えられた理由は今ひとつはっきりしない。北庄城攻めでも金沢城の明け渡しにおいても秀吉陣営によって行動したのであろうが特に目立った手柄をあげたようでもない…秀吉はなぜこの投稿者に対してこのように寛大であったのか。
そこで建てられたのが利家防犯あるいは利家内通の噂であったらしい。賤ヶ岳の合戦で利家が寝返ったから秀吉の北国平定はスムーズに進行した。その恩賞が加賀国北二郡であったという理解である。

当時、内通や謀反説を記したのは「当代記」という本。
しかし、最終的に大西氏は「史料の裏付けを欠く」「想像の域を出ない」と結論づける。
その証拠として、静ケ岳の退却では、前田家の名だたる武将がけっこう戦死している、と。もし内通していたら、そんなに損害は出ない筈だ、と。
当時の村井長明という侍は、敗走時の前田利家が「この際、柴田勝家を討ち取って投降しては?」という臣下の進言を退け、むしろその戦場に留まって死に花を咲かそうとしている勝家を拝むように説得し、北へ退却させた…と語っている。


じゃあ、なぜ前田利家は、一度は敵に回った秀吉に許してもらい、重用されたの?銀英伝ファーレンハイトだって、許されたかもしれないけど元帥の中では影薄いよね?ファンもほぼいないよね?と、無駄に銀英伝ネタを出して、しかもファンに怒られそうなことを言うのは余計なんだけど(笑)、
ひとつには、「秀吉と利家は『親友』だったから」との説明。いい話ですな……。もうひとつは、「前田利家は息子利長が、織田信長の娘婿。この時代の秀吉は『織田一族に通じるもの』を仲間に入れたかった。同じ立場の丹羽長秀も、この時期は優遇されている。」という岩沢原彦説で、大西氏もこれを支持していた。


まあ、ただ「戦線離脱したが裏切ったわけではない」が本当だとしても「賤ケ岳合戦での、前田利家の戦線離脱が、柴田軍敗因の大きな要因だった」は、もっと注目される訳で。

ちなみに、謀反内通か、そうではなかったかはともかく、負けた柴田勝家前田利家に寛容だった。

俺はもう負けだから、お前は旧友だった秀吉を頼れ、と言ってくれたし、人質も危害を加えずに返還したそうな。
実は器の大きい、寛容な男だったらしい、柴田勝家は。
そのへんのことは「センゴク」で描かれている。

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前田利家は、賎ヶ岳では完全に裏切り者ですか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1145406831 #知恵袋_

前田利家の背反 柴田勝家の器量〜
http://4619.web.fc2.com/hero7.html

http://www2.ttcn.ne.jp/tot23/page033.html
前田利家の鈍感さを感じるのは、賤ヶ岳の戦いとその後の彼の行動です。前田利家柴田勝家に与しながら、戦勢不利になったころ、戦線離脱し、柴田軍の敗北を決定的なものにしています。(略) 事情はどうあれ裏切りは裏切りです。関ヶ原の小早川と変わるところはありません。


結果、柴田勝家の同盟者、織田信孝切腹する。

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センゴクより、織田信孝の最後「報いを待てや 羽柴筑前

昔より 主(あるじ)内海(討つ身)の  野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage337.html


そんなこんなで、最終的に賛同するか、否定するかはともかくとして、説としては「前田利家、日本三大裏切り者の一人説」は、そういうものがあると覚えて、持ち帰っておいてください

あれ?そうすると「利家とまつ」「麒麟がくる」で、3人のうち2人が大河ドラマの主人公……となると、小早川秀秋大河ドラマの主役になるワンチャンあるで!!