当方「歴史上の人物はその実像の研究と並行して、同じ重みで『どのように語られてきたか、どんなイメージを持たれてきたか』の歴史が研究されてしかるべきだ」…と長年主張して参りました。
明智光秀がまさかの大河ドラマになって、これまで語ってきたこの話にも説得力が出てきたけど、過去記事で言うとこういう記事やまとめの話。
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そして、ある人物について、このように「どう語られてきたか」を論じる本が出版されました
「国家はいかに『楠木正成』を作ったのか」
国家はいかに「楠木正成」を作ったのか: 非常時日本の楠公崇拝
- 作者:博幸, 谷田
- 発売日: 2019/02/07
- メディア: 単行本
出版時、呉座勇一氏が高く評価した。
bunshun.jp
以下、同書を読んで、箇条書き的に内容を紹介する。
中島商工大臣「尊氏礼賛」で辞任
・最初は明治以降の楠木正成神話化、偶像化に対して非常に重要となる昭和9年の、中島商工大臣による足利尊氏礼賛問題が語られる。当たり前して当たり前なんだけど、この問題に関するやり取りの多くは国会議事堂の中で行われたので、議事録が残っているのね。その議事録を見ると、実になんとも面白い 。
帝国議会の議事録は、インターネットだと画像(PDF)で見ることができる。
teikokugikai-i.ndl.go.jp
第65回帝国議会 貴族院 本会議 第13号 昭和9年2月7日
同書では、これまでこの中島辞任問題が詳しく語られた本がほとんど出ていないという事実を指摘した上で、その詳細を、改めて再検証しているのが興味深いところだ 。
例えば中島という人はその後帝人事件で冤罪なのに取り調べを受けるなど非常に不運な人生を送ったのだが…その尊氏礼賛論とは「余は、いつわりならず平素最も尊氏の人物に傾倒しているものである。…好漢足利尊氏は、偶々この時代の潮に掉してついにクロムウェルの事業を行ったのである」
とかかなりぶっちゃけたもので、戦前でもある時期はこんなことも言えたんだな、と逆に驚かされる。
その後もあれこれがあったんですけど、この中島大臣が辞職した後、菊池寛がちょっと面白いことを書いている。この辞任に至る論戦が、主に貴族院で行われたことを皮肉って「当時楠木正成の作戦を妨害して、正成に港川で無理な軍をさせ、事を誤った公卿の子孫である貴族院議員などが、今更尊氏の攻撃をするのはおかしい」と(笑)
ははは。
有名無名の「教育者」、正成を教材とするため知恵を絞る
・楠木正成を国家の大中心、偉大なロールモデルとして位置づけるためには、 近代教育の礎を築いた人々の中の…今では、やや無名に渡る大小の教育研究家がいた。またこういう人は主観的に、というか、確かに極めて教育熱心で、情熱的で、創意工夫にあふれた人も多かったようだ。こういう人たちが知恵を絞り情熱を傾けて「いかに楠木正成公が偉大であったかを、子供達にわかりやすく教える」ための工夫を行った。
その名残が未だに楠木正成にまつわる様々なエピソードやイメージの元となっているようだ。
徳富蘇峰
・昭和9年と昭和10年には、建武の中興600年祭、そして大楠公600年記念祭が行われている(つまり建武の新政が1年で失敗して、楠木正成がすぐに戦死したということなんだけど)。この際に様々な記念行事が行われた。
この時、カリスマ的な知名度と権威を持っていた人間が、ジャーナリストにして歴史家、今だに「近世日本国民史」は日本人の史観に深く影響しているとも言われる徳富蘇峰であった。
筆者が評するには1930年代の蘇峰には「かつて鋭い論法で論壇をリードしたオピニオンリーダーとしての生気はとうに失われていた」…そうだが、物書きにとって、執筆活動の全盛期と、それが社会に評価され知名度や権威の「全盛期」がずれることは往々にあること。昭和9、10年代にはまさに徳富蘇峰は知名度・ 経緯としての全盛期を迎え「昭和の国師」的な存在であったと言う。
ところが徳富蘇峰は痩せても枯れても優れた歴史家であるから、ちょっとこの楠木正成の全面的な礼賛とは、少しばかり距離を おいていたようなのだ。
その辺の微妙なニュアンスが、この本の中では語られている。
一応、蘇峰作の漢詩を記録。
七生人世志堪悲
六百星霜事可追
白髪書生空揮涙
楠公墓畔落花時
荒木貞夫
・特に面白かったのは…その後、A級戦犯にもなったんだっけかなこの人は。荒木貞夫という人がいた。
ja.wikipedia.org
陸軍大臣も務めたこの人間は、実は戦前、一人の『人気者』であったんだ。
やたらめったら喋ったり書いたりすることが大好きな方であり 「皇国」「皇軍」という、実のところ正式に採用されたわけではない美名を一般に広めたのはこの荒木貞夫だったらしい 。
”昭和の楠木正成”などという、大層なる異名が付けられたのはご愛嬌としても、少年倶楽部などに彼を礼賛する評伝が載ったりもした。当然この人も、楠木正成礼賛を色々としてるのだけど まあ内容的に見るところはない。
ただそれより陸軍大臣だった、軍人だった荒木貞夫が世間の「人気者」でもあったというこの事実を、一つの未来への教訓とできるのではないか。
中村直勝
戦後に「足利ノ尊氏」という本を書き、大悪人のように書かれてきた尊氏の再評価をしようとしながら…も「わが国には我が国の国是がある。順逆の別、官軍と逆徒の別がある。それの区分を明らかにすることが国民道徳の基本‥」と余計なことで悩む。
若き文学者たち
・この後、小説などにおいても、様々に楠木正成は描かれた。
なにしろ戦前は菊池寛、直木三十五、大佛次郎、武者小路実篤などが筆を揮っている。別にこれらが全て芸術的価値がないわけではないがそこの描き方の差を見ると色々面白い。
湊川神社の鳥居が崩落!その反響は、解釈は?
最後をしめくくるエピソード。
昭和12年、兵庫の湊川神社には石材とコンクリート製の、高さ12メートルを超える超巨大な「日本一の大鳥居」が寄進される。だがこれが昭和13年…、1年も持たずに2本の柱だけ残して崩落したと言う(笑)。
どうも何かの設計の欠陥があったらしいのだが、その理由はおくとしても、さすがに 大楠公の業績を顕彰するための大鳥居が地震も何も無しに崩壊したとなれば体裁が悪すぎる。
結果、日中戦争の戦局に合わせて「漢口攻略戦が始まったので大楠公がご出征なさった」 とか「武漢三鎮(あの、いまホットな武漢!)が陥落することを、3本つなぎの笠木が落ちたことで示したのだ。そして鳥居の柱の2本(日本)はビクともしない」という……、誰がうまいこと言えと、 みたいな解釈まで生まれたと言う
・この本、紹介したい事例が著者は多すぎたらしくて、ちょっとぶつ切りでテーマごとの連動性があまりない。
本人もあとがきで「些か全体としてのまとまりに欠けた寄せ集め的な様相を呈することになってしまった」と弱点を自認しているが、当方もブログで書きたいことがあるとこういう風になることが多いのでちょっと同情している(笑)。
あと、個人的には明治以前の、太平記ロマンや水戸学などから、「楠木正成」が巨大な存在になっていく過程も知りたかったし「新田義貞」はどうして存在感を(特に戦後は)失ったのか、も知りたかった。
まあ、そのブツ切りの中から、自分の興味のあるトピックを見つけて掘り下げていくのが有意義な読み方のような気がする。
成功したかどうかはともかく、果敢に「歴史上の人物の「イメージ変遷史」に挑戦した野心作」として 評価したいところであります。