思い起こせば、当方、すべての地方選及び国政選挙、最高裁判事信任投票において、一度たりとも棄権したことがない。すべてで投票している。
いやなに、それほどのことでもない(ほんとにそれほどのことでもない)。ただやれるから、しただけである。というか8割9割の人がそうだろう…と思いきや、国政選挙でも5割、地方選では多くの選挙で3割台とかになってるから、日本全体でいうとやっぱりまれな存在なのかな。
で、「棄権者は全面信任だ。それをしたひとは政治に物申す資格が無い」という議論がある。政治家本人ですら言っている。
民主党の小沢一郎代表代行が高知市内で街頭演説し、「皆さん自身の一票一票で、皆さんの政府をつくることが出来るというのが民主主義の仕組みだ。自民党に投票しておいて、今の政治に文句を言う資格はありません。また、自分が投票に行ったってどうせ変わらないと、棄権している人たちにも今の政治に文句を言う資格はないんです」。
最初の黒字部分も、法哲学的にかなりの問題発言なのだが、後者のほうもまた剣呑ではある。
若い人たちに投票を促すのに
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年7月9日
「説教」(君らのためなんだぞ)
「脅迫」(行かないとひどいことになるぞ)
「挑発」(老人の天下になっても良いわけだな?」
的なツイートを発信する人たちがいますが、どれも「若者は現状を把握できていない」と決めつけている点で失礼だし、逆効果だと思います。
私自身、投票に行かなかった時代、何がいやだといって上から説教されるのが一番不快でした。現状を把握できていない若者がいないとはいいませんが、彼らを投票から遠ざけている最大の理由は、日常の中で政治が忌避されているからです。選挙の時だけ「政治的になれ」と言われてもシラけます。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年7月9日
なので、選挙期間中に年長者が投票を促すこと自体、本当は逆効果なのかもしれません。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年7月9日
必要なのは、選挙とは無縁なあたりまえの日常の中で、政治的な発言や行動を異端視(めんどうくさいやつ)する社会の空気を少しずつでも改善して行くことだと思っています。もはや手遅れかもしれませんが。
どうしても投票を促したいのなら、ふつうにストレートにお願いするのがスジだと思います。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2019年7月9日
情報弱者に情報を与える体でものを教えようとしたり、わかっていない人間に噛んで含めるように状況を説明しようとする態度は、聞かされる側からすると、まっぴらごめんな説教なので。
この話は、別に初めての話ではなく、お馴染みのネタである。
business.nikkei.com
私自身、50歳になるちょっと手前までは、一度も投票に出かけたことのない人間だった。
このことを口にすると、どういう文脈で言った場合でも、必ずや全面的な攻撃を浴びることになっている。「50歳になるまで投票に行っていなかったような無責任な人間がえらそうな口をきくな」
「百歩譲って、投票しなかった過去があること自体は、個人の自由で、他人が口を出すべきことではないのだとして、あなたのような影響力のある人間が、自分が投票に行かなかったことを誇らしげに語るとはなにごとか。若い人たちへの影響を考えないのか」
「要するに口だけの人間だということだ」まあ、おっしゃる通りだ。
この件について、いまさら弁解をしようとは思わない。棄権する自由についてあえて議論しようとも考えていない。
ただ、投票を市民の至高の義務であるかのように訴える人々の高飛車な物言いが、若い人たちの投票意欲をむしろ減退させている可能性については、この場を借りて、ぜひ注意を促しておきたい。
東浩紀氏とやりあったりもしてたらしい。
martbm.hatenablog.com
棄権したことがある、よく棄権している、いつも棄権している…を公言する知識人、文化人は、ざっと思い出す限りその小田嶋隆、東浩紀両氏のほか、中森明夫(日本棄権党なんてやってたな)古市憲寿、呉智英、浅羽通明、押井守、ロフトプラスワン席亭、…氏らか(ほかにいたら知りたい)
あと、変わったところでは、自分ではなくほかのひとにこう呼びかけた人がいる。
自民、公明に投票しようとしている皆様はどうぞ御棄権ください。投票先をまだお決めでない皆様は雨にも負けず投票所にお運びになって、立憲民主、共産、社会民主のいずれかに御投票ください。また、自公への投票を組織の掟で求められている皆様は日頃の鬱憤を晴らすため、野党に投票してください。
— 島田雅彦 (@SdaMhiko) 2017年10月20日
正直や。
『棄権した人は、政治を語る資格はない』という議論、論理的倫理的には間違いだと思うが、当方に有利なので乗っかろう。
『棄権した人は、政治を語る資格はない』という議論は、論理的倫理的には間違っている…という話は、過去にいくつか書いた。
こちら参照
m-dojo.hatenadiary.com
だが…冒頭に書いた自分のことを振り返り、ふと思いついたのである。この意見、『自分にとっては』有利だな、と。
そして、一歩進めて(いや八歩ぐらいか…でも、すぐ近くにある議論だろう)、こういうテーゼを考えた。
『選挙権を得てから、地方選挙を含めてどの選挙でも一回でも棄権したことがある人(※温情で病気や事故など、やむをえざる理由がある人はゆるす)は、それ以降、政治を語る資格は(法的にはともかく、倫理的・道徳的には)一切無い。』
いささか過激かしら?
でも、これぐらいやらなきゃ、投票率はあがんねーし、民主主義も守れねーんだよ!!
ということで、たとえば50近くまで棄権していた小田嶋隆氏が、偉そうに政治なんぞを語る資格なんてねーんだし、それを原稿料を払って雑誌やサイトに載せるメディアも、棄権という倫理的絶対悪を広めることに加担する悪党である。呉智英や浅羽通明らもしかりだ。彼らは一回も行ってないという説があったが…
というふうな戯文でかいてみたが、「語る資格はない」といくら外部からいっても、それが倫理や道徳の面ではともかく、法的なものではないかぎり、規制のしようもない。小田嶋氏は50代になる前にも、コラムでさまざまに政治を論じていたが、それを本人はもとより、読者でも「あいつは棄権者だから、『政治を語る資格』がない。だから遡って、彼の発言を否定しなければならない」ともいう人はいまい。
この時点で「棄権した人は、政治を語る資格はない」というのはちょっとアレな議論なんですわ、現実問題として。
だが…なんでこの思考実験をしてるかというと、…この文章だな、民主党政権誕生直前の、2009年の文章。
じゃあ何ゆえ選挙にはいくべきとされるのか
※1、2は(略)。興味ある人はリンク先参照
【3】・あと、世の中においては何かの公的な活動に対して「神聖なものである」という虚飾をまとわせなければいけないことは多い。
納税もそうだろうし、もし今徴兵制度があったらその徴兵もそうだろう。裁判員制度への参加も、国民保険の加入や保険料の負担、(各国の)国旗や国歌の尊重・・・・・これらは、スムーズに行うために、ただ単にやりなさいと国が権力で命じるのにプラスして「すっごく神聖なものなんです。国民たるものやらなきゃいけないものなんです」というプロパガンダをしているのです。だからある意味、リンク先の方はこの国家の総力を挙げたプロパガンダに洗脳されておらず、こちらは洗脳されているのかもしれない(笑)。
よく、「適当な候補者がいないなら、白票であっても投票すべきだ」という意見がある。
これは「白票があると、ああ全候補者者が信頼されていないんだな、と反省を迫れるから」という論理的な帰結の末に投票する人もいるだろうが「候補者がいようといまいと、その『投票』をすること自体になにごとかの精神的な意味、神聖ななにかがあるんだ」という、宗教的感覚を持つ人もいるだろう。
そういえば最高裁裁判官の国民審査は、ぎゃくに分からんよという白票はイコール信任だっけ。
m-dojo.hatenadiary.com
そう、なんというか、棄権を減らすには、論理的に語るよりも(棄権してはいけないのかを論理で詰めるとぼろが出そうな…)、「なんか、とにかく神聖な行為なんだよ!投票というのは」「投票しないとばち当たる」「投票所には それはそれはキレイな女神様がいるんやでだから毎選挙で 投票したら 女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで 」
www.youtube.com
という”宗教的神聖化”に頼るしかないんじゃないか、ということですな。
その一環として「棄権した人は政治を語る(批判する)資格はない」というのはあっていいかもしれない。そして、その超厳格派、小乗選挙教??として「選挙権を得てから一回でも、その権利を行使しなかったものは、以降永久に政治を語る資格を失う」という、新教義を広めてもいいのではないか(いや、よくないよ)。
おなじみ 日本国憲法第十五条の4 後半部。
……選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
追記 小田嶋氏はその後、ツイートを発展させる形でコラムを書いた
私自身、長らく
「うるせえばか」
と思っていた。じっさい、40歳になるまで、私は有効投票をしたことがない。
両親や周りの人間がグダグダうるさいので、投票所に足を運ぶところまでは付き合ったものの、どうしても候補者の名前を書く気持ちになれなかったからだ。だから、投票用紙に自作の俳句を書き込んだり、好きなロックスターの名前を書いたりというカタチでその場をしのいでいた。
まあ、バカな話だ。弁解の余地があるとは思っていない。ただ、ここで大切なのは、私が、単に
「面倒くさいから投票には行かないよ」
という消極的な理由で投票を回避していたのではない、ということだ。現に私は何回か投票所に足を運んでいる。
それでもなお、私が有効な一票を投じなかったのは、私自身が、積極的に投票をボイコットする気持ちを持っていたということだ。
まあ、スネていたわけですね。あなたの一票があなたの未来を作るのです的なおためごかしの演説に、なんだか猛烈に腹を立てていたということです。
はい。バカな反応でした。
反省しています。ただ、40歳を過ぎた頃からは、毎回投票に行っている。
理由は、必ずしも一票の重みを自覚しはじめたからではない。
私が投票するようになったのは、メディアを通じて発言する機会を持つようになったことと関連している。もう少し具体的に言うと、公共的な場所で、「言論人」に近い扱いを受けている人間が
「えーと、選挙には行っていません」
「えっ? 投票ならしてませんが?」
みたいな発言を垂れ流すことが、絶対的に許されないことを、いくつかの機会を通じて思い知らされたからだ。特にインターネットが普及してからは、
「オダジマは投票ボイコット組らしいぞ」
「あいつ選挙にさえ行かないんだとさ」
「そのくせ、政治には一家言あるみたいだぜ」
「最悪だな」
「クソだな」という感じの噂(まあ、半ば以上は事実だったわけだが)にずいぶん苦しめられた。
自業自得であることはよくわかっている。とにかく、私としては、説教のつむじ風みたいなコトバの塊が選挙の度に訪れることに閉口して、有効投票を実行する方向に方針変更した次第なのである。
ありゃー、これじゃ「選挙に行かないのはけしからん!そいつはダメ人間だ!!」と非難することが、結果的に投票率上昇には有効だ、ってことになるじゃん(爆笑)