この写真は俺と平吾 (アニマル浜口) が新日本のリングに殴り込みをかけたときのものだよ (1981年9月23日・田園コロシアム) 。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2017年9月17日
「こんばんは」って挨拶したら会場のお客さんたちから失笑されちゃったけど、初めてのところに行って、きちんと挨拶するのは当然ことだと俺は思うんだよ。 pic.twitter.com/1rNDpUsRgE
俺と平吾と寺西にとっては屈辱的とも言われた例の猪木との変則マッチだけど、俺自身は全く恥じてはいないし、むしろ誇りにさえ思っているんだ。あの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は25.9%を叩き出したんだからね。これは同番組史上歴代3位の高視聴率だったんだよ。 https://t.co/iyHsGyju3P
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年5月15日
1位と2位は異種格闘技戦絡みだから、実質歴代ナンバーワンと言っても構わないんじゃないかな。ちなみに4位は1983年7月に放送された寺西と初代タイガーの試合だよ。つまり俺たち「はぐれ国際軍団」は、新日やテレ朝を大いに儲けさせてやったということなんだ。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年5月15日
まあ、観客動員だのテレビ中継の視聴率だのという以上に、俺と平吾と寺西にとっては新日本マットでの憎まれ役を引き受けることで、長年お世話になった吉原社長に義理を果たすことができたんだ。俺があの試合を恥だと思わないのはこれがいちばんの理由なんだ。平吾と寺西もきっと同じ気持ちのはずだよ。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年5月15日
ちなみに俺は、いかりや長介率いるザ・ドリフターズやビートたけし&明石家さんまのチームひょうきん族との三つ巴の抗争に敗れ、ローカル枠へと追いやられた兄貴&日テレも救ってやっているんだ。俺がマイク・パフォーマンスを始めた頃から『全日本プロレス中継』の視聴率が急激に上がりはじめたんだよ。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月13日
これは1973年に米国マット界に登場した「初代ザ・グレート・カブキ」だよ。彼は世界初のペイント・レスラーとも言われているんだ。つまり米良は二代目の歌舞伎ってことだね。ただし初代は「Kabooki」、二代目の米良は「Kabuki」で、リングネームの綴りが違うんだよ。 pic.twitter.com/2J0BDJ6hS2
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月14日
この初代カブキの正体は、ジョージ・レイ・ウルバーノというフィリピン人プロレスラーだよ。デビューは1950年でしばらくは本名のままリングに上がっていたんだけど、1950年代後半から60年台にかけては「タロー・サクロー」「トーキョー・トム」を名乗って、日系人ギミックレスラーになったんだ。 pic.twitter.com/oDQrVSI3lF
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月14日
ウルバーノは1924年生まれだから、「カブキ」になったときは、すでに50歳近かったということになるね。実際にカブキとしての活動期間はひじょうに短かったんだ。ちなみにフィリピンの大スターで映画監督でもあったマヌエル・コンデは、ウルバーノの従兄弟なんだよ。 pic.twitter.com/Ry9FO6RKDV
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月14日
1975年頃に引退して、先ずはロサンゼルスのレストランで調理師として働いたそうだよ。ところが翌年に「Knockout」というボクシングゲームと「First and Ten」というフットボールのボードゲームを考案して、これらを売るための会社「Urbano&Associates」を設立したんだ。 pic.twitter.com/2QzgOU1AIn
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月14日
初代ザ・グレート・カブキことレイ・ウルバーノが考案したこれらのゲームはサッパリ売れず、設立した会社もすぐに売却してしまったそうだよ。この事業の失敗ですっかり金を失ってしまったウルバーノは、1981年に再び「カブキ」としてリングに上がることを決断したんだ。 https://t.co/dXJ3Iu4B9g
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月14日
しかしこれも失敗だったね。なぜなら米良が二代目ザ・グレート・カブキとしてブレークしていたからだよ。すでに60歳近い年齢で動きも悪くなっていた初代カブキを使おうなんて奇特なプロモーターはほぼ皆無だったんだ。事実、閑古鳥が鳴いている田舎町の興行くらいしかお呼びはかからなかったそうだよ。 pic.twitter.com/HZWidc8AMi
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月14日
結局、初代カブキは1983年に2度目の引退をしたわけだけど、1990年代には現役時代のプロレス界への貢献が認められてカリフラワー・アレイ・クラブの会員にもなったんだ。晩年はラスベガスの老人ホームで静かな余生を過ごし、2007年に83歳で亡くなったんだよ。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月14日
レイ・ウルバーノの最大の功績は、世界初のペイントレスラー「初代カブキ」としてではなく、米国で成功した初のフィリピン人プロレスラーということだね。フィリピンのプロレス人気はイマイチなんだ。だけどウルバーノの全盛時代だった1960年には、彼の試合がテレビで放送されるようになったんだよ。 pic.twitter.com/wfsaPHL4qT
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月14日
☆夏目漱石はエンタメです! 芥川賞作家・奥泉光さんに聞く古典の楽しみ方 - GINZA https://t.co/scPF1ct7d7
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月16日
漱石がエンタメならば、プロレスもエンタメなんだ。そして日本近代文学史上最高のエンターテイナー夏目漱石は、プロレスという世界最高のエンターテイメントを生観戦したことがあるんだよ。
漱石は当初、日本人柔術家と西洋人レスラーの試合があると聞いて会場に出かけたそうだけど、何故かこの試合は中止になってしまったんだ。その代わりに行われたのがスイスのチャンピオンと英国チャンピオンによるレスリングの試合だったそうだよ。ちなみに漱石はこれを「西洋相撲」と書いているね。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月16日
50銭ほどの「いちばん安い席」のチケットは既に売り切れていたので、漱石は「1円25銭ほどを奮発」したんだ。だけど選手の顔も判別できないほどリングからは離れた席だったみたいだよ。漱石は「日本の相撲でいう砂かぶりのような特等席は、5円か6円の大枚を叩かなければ座れない」と書き残しているね。 https://t.co/h6fmHHQsA9
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月16日
漱石の試合評はかなり辛辣だよ。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月16日
「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたもの」
「蛙のやうにヘタバッテ居る奴を後ろから抱いて倒さうとする」
「坐り相撲の子分見たような真似をして居る」
もう、けちょんけちょんに酷評しているね。
相撲や柔道を見慣れている日本人の漱石にしてみれば、西洋のレスリングの試合はかなり退屈に感じたようだね。実際にこの試合も睨み合いばかりがやたらに多く、数時間もかかり、決着がついたときには深夜0時を回っていたそうなんだ。ただし当時のプロレスの試合は、ほぼ全てがこんな感じだったんだよ。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月16日
プロレスの試合はボロクソに貶した漱石だけど、深夜まで及んだこの試合の詳細が、わずか数時間後に届いた新聞の朝刊に報じられていたことにはブッたまげてしまったんだ。漱石はその驚きも子規に宛てた手紙の中に書いているよ。ちなみにこの手紙は、漱石から生前の子規に届いた最後の手紙だったんだよ。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月16日
プロレス界随一のケチといえばブッチャーだよね。なんたって六本木のステーキハウスでランチをおごっただけで自分の人生を2時間半もかけて語るくらいだからね。しかしブッチャーがケチだというのは、毎度のごとく『プロレススーパースター列伝』によって流布された虚偽情報にすぎないんだよ。 pic.twitter.com/cJEfzmD7uG
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月17日
その証拠に詩郎 (ド演歌ファイター) がこんな証言をしているんだ。↓
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月17日
「若手時代は外国人レスラーのカバン持ちをやらされていたんですけど、いちばん気前よく小遣いをくれたのはブッチャーとシークですね。逆にドケチだったのはマスカラスとザ・ファンクス。あいつらは飯も食わせてくれませんでした」
本日6月18日は #おにぎりの日 だよ。
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月18日
ちなみに兄貴はプロレス雑誌の編集長には「ORIGAMI」のパーコー麺 (税込み3,088円) をご馳走するんだけど、ただのフリーライターにはおかかのおにぎりを紙袋に入れてお土産に持たすだけなんだ。これはまさしく「キラー兄貴」の健在ぶりを示すエピソードだよね。 pic.twitter.com/mYusSkf9dw
今日は #恋と革命のインドカリーの日 だよ。新宿中村屋創業者の娘さんがインドの活動家ラス・ビハリ・ボースと結婚して、1927年6月12日に同店で「純印度式カリー」が売り出されたことに因んだ記念日なんだ。しかし俺たちプロレス者にとってのインドカリーの名店は中村屋ではなく、『ガンズ』なんだぞ! pic.twitter.com/P0Ioaz84Ki
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月11日
つくば市にあるこのお店はタイガー・ジェット・シンの親戚が経営していて、店内はたくさんの猛虎グッズで溢れかえっているんだ。肝心のインドカリーの味の方も俺たち国際血盟軍メンバーが自信を持っておすすめするよ。ナマステ! pic.twitter.com/Dqfdx4Z4FE
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月11日
インドカリーとはまったく関係ない話になるけど、シンの好きな日本の女優は吉永小百合さんなんだ。決して倍賞美津子さんではないから間違えちゃだめだぞ。ついでに言っておくと平吾の好きな女優は沢たまき、俺は京塚昌子だからな。これは覚えておいて絶対に損がないプロレス豆知識なんだよ。 https://t.co/z8NJpAbIr9
— ラッシャー (@Rusher_415) 2019年6月11日
もちろん、木村氏は故人なので今ツイートするはずもなく、要はそのキャラクターを借りている(いわゆる「なりきり」)のだが、関連してこのサイトを「ラッシャー木村」で検索してみた記事。
m-dojo.hatenadiary.com
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お前名無しだろ:2010/05 /26(水) 11:37:25 id:HR7bnB1k0
ジャンボがセミリタイヤ後、筑波大学院に受かって最初に報告したのがラッシャーさん
J「木村さん今度僕マスター(修士)になるんですよ」
木「そうか頑張れよ。最初は小さい店なんだろうけど月に一度は飲みに行ってやるよ」
と言ったエピソードが好き
960 名前:若林健治[] 投稿日:2010/05/25(火) 07:39:47 id:ax7zaFQY0
ラッシャー木村さんがいつも控え室で見せて下さった「笑顔」が忘れられません。
いつも自分のことより、鶴見五郎さんや高杉正彦さんのことを心配していた木村さん、
国際血盟軍時代も卵や石を投げこまれ何回も引越ししていた木村さん、
また捨て猫を拾ってきてしまったよと微笑んでいた木村さん、
馬場さんの前では直立不動の木村さん、
たまにマイクのネタを聞きにきてくれた木村さん、
よかったですよと褒めると本当に嬉しそうだった木村さん、
いつまでもプロレスを続けたいからと禁酒した木村さん、
でも「正月だから少しのんじゃった、デヘヘ」と照れる木村さん
あと、正岡子規に夏目漱石がプロレス・ルポを送る話は
m-dojo.hatenadiary.com
でちょっと紹介しています。