光岡氏が谷幸雄が不遷流で田辺又右衛門に習ったなんて古い情報を書いてるのか。私は接触はあったと見てるけど、門下という証拠は出てない。もともと天神真楊流とほぼ確定してるし渡英前に講道館でも稽古してるし
— ちていのき (@baritsu) 2018年6月5日
そうなの?
— gryphon(まとめ用RT多) (@gryphonjapan) 2018年6月5日
実は私が「谷幸雄」ウィキペディアを主に執筆したのだけど(その後詳しい方がだいぶ補足修整してくれたけど)、そこでもはっきり、田辺に習ったって書いちゃってるし今でもそうなってるわ。どこで読んだのだっけかな…https://t.co/DYFgAwSBhY
谷幸雄は自分で流派を述べてないのではっきりしなかったんですが、確か「柔道百年」また最近では「柔道」誌に不遷流の記事が載りそこで谷は田辺の弟子と書かれたのが大きかったと思います。その後に記録で天神真楊柳の谷虎雄の息子と確定されてますね
— ちていのき (@baritsu) 2018年6月5日
うーん、パスワードを忘れて今ではウィキペディア直せない…。
— gryphon(まとめ用RT多) (@gryphonjapan) 2018年6月5日
あとで新アカウントをとるか
その時、ウィキに流派を書けるソースなど教えてもらえれば幸いです
(直接詳しい貴兄にウィキ記事をいじってもらうのが一番いいのだけど)
「谷虎雄」検索 約 1,440 件 うーん…
— gryphon(まとめ用RT多) (@gryphonjapan) 2018年6月5日
あれ?
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「…兄の谷虎雄はこれを機に帰国してしまいましたが、若い弟の幸雄はイギリスに残り…」 名前を継いだのかな?
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内田賢次さんの「対訳 The Game of Ju-jitsu 柔術の勝負 明治期の柔道基本技術」がその辺調べておられます。お兄さんは鉱雄だったかな
— ちていのき (@baritsu) 2018年6月5日
wikipedia:谷幸雄
谷 幸雄(たに ゆきお、1880年(明治13年)- 1950年(昭和25年)1月24日)は、柔術家(不遷流、講道館柔道)。身長160cm未満、体重は60kg未満。主に英国で活躍、「スモール・タニ」の愛称でも知られ、ロンドンのミュージックホールなどで数多くの他流試合を行った。新聞「スポーティング・ライフ」にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのライト級チャンピオン ジミー・メラーに勝利したことを称えられる。目次
年譜
父や祖父も柔術家で、不遷流柔術は田邉又右衛門(不遷流第4代)に習ったという。1900年9月に渡英[1]。E・W・バートンライト(E.W.Barton-Wright)が設立した「バーティツ」(Bartitsu)道場にも招かれ指導に当たった。この「バーティツ」より着想を得た作家のアーサー・コナン・ドイルが、自身の小説の主人公シャーロック・ホームズは東洋武術「バリツ」の習得者で、この技で「最後の事件」の際に危機を脱し、一命を取り留めた…との設定を思いついたとの説もある。
1903年「バーティツ」の事業は失敗し、同じく日本から来た柔術家である上西貞一らとともにロンドンミュージックホール(music halls)においてウイリアム・バンキアー(アポロ)の下で、チャレンジというジャケットマッチで対戦者を一般から15分もてば20ギニー、勝てば追加百ポンドという条件で募り、、これを関節技や絞め技で次々に返り討ちにして評判を呼んだ。11月には、”ロシアのライオン”の異名を取ったジョージ・ハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけたが、実現しなかった。
1904年、三宅多留次(後のタロー・ミヤケTaro Miyake)と戦い敗れる。また共同で日本柔術学校を開設。
1906年、英文の著書「The Game of Ju-Jitsu - for the Use of Schools and Colleges」を出版(共著)。
1907年、前田光世が渡英し谷の道場で一時期指導者となる。他流試合においても谷と前田は協力関係を築き、谷と緊密な交流にあった前田によると「谷氏は警視庁で山下七段(山下義韶)の門人として初段になり、渡英後、幾多の苦戦を経て居る老巧者で、実力以上に勝負が巧みだ」とあり、谷は当時の日本でよく見られたように、はじめ地元で柔術を学び、後に講道館入門したケースではないかとも目