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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

キケン(棄権)な話。〜総選挙を前に、浅羽通明「思想家志願」から

大きな選挙が近づくにつれて問題になるのが、「棄権」にまつわる話。
自分は2004年からこのブログを始めたので、衆院だけでも2005年の小泉郵政選挙、2009年の民主党政権交替選挙につづく3回目の選挙だが・・・

前回2009年に、この問題については

■「選挙に行く・行かない」の是非に関する、原理的な議論
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090902/p5

書いている。
このエントリーを書いたきっかけが、当時

「正・続 選挙にはいかない」
http://d.hatena.ne.jp/takuya/20090825/1251227230
http://d.hatena.ne.jp/takuya/20090826/1251308604

それへのブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/takuya/20090825/1251227230
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/takuya/20090826/1251308604

がホットエントリーで話題となり、それに触発されてだった。確かこのころ、「はてなにはホットエントリや、ブックマークというものがある」とわかり始めたころだったんだっけ(5年ぐらいかかったのかよ!)。

棄権に関しては上の拙「原理的な議論」で自分の意見をほぼ語っているのだけど、元の記事でも「それを元ネタにしています」と紹介した

がいま、手元にあるので、関係の原文を引用しよう。

ずばり一章、「選挙など棄権してかまわない」という文章が載っているのだ。元は雑誌「宝島30」に掲載された。
ちなみにこの時期、まだ「民主党」は結成されてない。

選挙という制度が実はふたつの意味を帯びているということにあります。ひとつは「投票率」に象徴される意味です。棄権を非難するやからが選挙に求める意味、選挙そのものの意味といってもよい。
(略)
次に「自民党圧勝」とかで表される意味があります。つまり選挙そのものではなく、選挙を通して実現する結果が帯びる意味ですね。
(略)デモクラシー教の根本儀礼・・・・(キリスト教の洗礼や聖体拝領)同様に宗教的な儀礼・・・・・それは国民ひとりひとりが、かけがえのない国政の主人として平等に選ばれているという教義ですね。そして選挙とは、この教義がお題目や建前でなくて本当なんだと皆が身体で実感する疑似体験というわけです。
(略)
皆が主権者だという教義は、言い換えれば、政治参加において個人は皆平等であるという教義でもありますよね・・・しかし、政治的平等は別に誰もが受け入れねばならぬ科学的真理ではない。どこまでも宗教的教義、つまりイデオロギーにすぎません。実際には権力や金力のある人とない人の政治への影響力の差は歴然・・・

人は生まれつき主権者でも平等でもありません。人権を保有してもいません。ただ社会的約束事としてそういうことにするルールも作れるというだけです。
そんなルールがなくたって人は生きていけます。そう、生身の実力によって。じゃあなぜルールがあるのか。もちろんそれで得する連中がいるからですよ・・:・(権力者が)地位を長く保ちたいならば・・・マジョリティの敵意をいかにかわすかが正念場となるわけです。
民主主義。国民主権。選挙権の平等。超一流の「敵意かわし」のテクニックといえましょう。なにしろ、これらの教義を信じて選挙に参加した善男善女が、自分たち皆が権力者や富豪と平等であり、国政の真の主人だと心から思ってくれるのですから。
(略)
社会党共産党スポーツ平和党へ入れた人も、「日本UFO党」「真理党(オウム)」や「発明政治」(※いずれも当時のミニ政党)に入れた人も、投票率上昇に寄与したという一点では、自民党政治の強化に助力してきたわけですよ。

後編

あとは駆け足で

デモクラシー教の教義に書かれた建前としての政治参加でなく、欲得ずくで政治へコミットしている人々にとて、選挙など利用できる一手段にすぎない…テロリズムも・・・極端な形での政治参加にはちがいありません。また陳情、合法また非合法の政治献金、行政象徴への種々の圧力活動、マスコミを操った言論による宣伝。いずれも実力による政治への参加です。
選挙という儀礼に象徴される平等な個人という教義=建前のベールを取り去るならば、こうした生の政治参加の姿は誰にも見えてくるはずです。・・・建前でない政治参加はいずれもコストがかかり、時にはリスクを負うということです。(略)…だからこそ、こうしたコストを払ってまで政治に関わるプレイヤーは、きっちりと損得計算を詰めてから動いているはずです。テロルの美学に統帥するあぶねえ野郎を別にするならばね。

・・・(20代の)Mさんが棄権を考えても、実感のある候補者選択が思い浮かばなくても不思議ではありません。時を経てMさんが、政治を動かさなければ生活にさしさわりがあるだけ強くかつ大きくなれば(ふつう、これを大人になるという)、そのとき「政治」は、別に信仰心は抱いてないが知識としては知ってる宗教であることをやめて、生活必需の実用品としてあなたの武器庫に納められているでしょう。

あらためて紹介しての感想

自分が選挙と棄権に関して述べた文章
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090902/p5
は、やっぱりこれに影響を受けている。
上の「選挙以外の政治活動は、コストとリスクが高い。それを踏まえてやっている」というのを自分なりに発展させて「選挙参加(投票)はコスト、リスクがゼロに近いので、やらないよりやってみたら?」としていたりね(笑)。
「選挙はあくまでも、欲得ずくで政治を利用するための一手段」という指摘から逆算して、「選挙を必要以上に神聖化する」(「XXXしてこそ真のXXファン!」、みたいな)ということの意味合いにも注目できたし。

真の民主主義者→「私が投票したA党が負けた!でも、民意が示されたことは嬉しくてしょうがない!」

か、どうか(笑)。まあ無い、擬似戦争だから。
ただ、よく言う
「棄権は白紙委任、すべて賛成したことになる。だからその後の政治に文句を言えない」という議論に、
「いや、反対党に投票した、私は与党に投票しなかったといっても、その意思決定プロセスに加わった以上、その正統性を認めていることになる。むしろ同じ選挙で、別の党や大統領候補に投票した人こそ(少なくとも棄権者以上に)、与党・大統領の政策や、政権の正統性を受け入れなければならない」
というのは、まあ一方の理屈ではありましょう。2009年の衆院選も含めて、である。

アイザック・アシモフ黒後家蜘蛛の会」のとあるシリーズではニクソン失脚後「だれがニクソンに投票したんだ?」と会のメンバーで糾弾するような雰囲気になって、ニクソンの反対候補応援者はどや顔、ニクソン支持者は「あの時はベトナム撤退問題が焦点だったし・・・」と言い訳していたのだが、へんな話っちゃ話かもしれへん。


当選後、反対候補の支持者が「わたしは彼(あの党)に反対だった。しかし全力を尽くしたが彼が多数派になった以上、その政権(大統領)は我々の指導者である」という姿勢は・・・米大統領選挙の敗北候補の演説にはときたま見えるが、だいたい3日後ぐらいにはそれは消えるのがふつう(笑)

ロフトプラスワン席亭の主張プレイバック

http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/ojisaneyes/0910/

■選挙だけが政治に参加する方法ではない

 ・・・選挙の直前、ある学生がテレビのインタビューにこう答えていた。「もちろん投票には行きますよ。国民の義務ですからね」。私は実に違和感をもった。多分この学生は、学生運動市民運動や地域運動や、まして反戦運動なんかやったことがない青年だと思った。選挙で一票入れることが、彼の世界では一番正しい政治的な選択だと思っているのではないか。政治に参加するには選挙しかない、と。さらに言えば、選挙で一票入れることが彼の唯一の社会運動なのだろう。
 私は一票入れることだけで満足していない。これまで、選挙で選ばれた議員達が決めたことに腹が立ったら、選挙であろうとなかろうと抗議行動をしてきた。そもそも私は、常に少数派でもあり続けてきた。だからあまり「選挙、選挙」といわれるとどこかとまどってしまう。投票に行かないことも何度もあった。さらにはどんな政治勢力も、権力を持ったら信用しないのが私の主義だ。何の社会運動をやったこともない連中に、「選挙に行かないなんて最低」と言われても、「私は一歩足を踏み出せば、他にたくさん発言の場があることを知っている」と答えるだろう。そういう市民の運動があって、選挙があるのだと思う。

このへん、浅羽通明のいう、「欲得づくで政治にコミットしているぶんだけ、真剣さとリアリティがある」人と同じ類例だね。

追記 12.16衆院選後、棄権についての新記事がホットエントリに

参考リンク

■選挙に行かない人に「なんで行かないの?」と聞くこと自体が、何か違うんじゃないのか
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20121219/1355908708

資料として。「太陽を盗んだ男」の長谷川和彦監督も積極的な棄権論者。(2022年に採集)

www.tokyo-np.co.jp

◆「多数決を信頼していない」

 長谷川作品の主人公は、両親の殺害や原爆で国を脅すという、ある種の「究極の罪」を犯す。そのアナーキーさの根底には、多数決で決める民主主義への疑問があるのでしょうか


 でかい態度で言うべきことじゃないが、選挙の投票に一度も行ったことがない。多数決というものを基本的に信頼していないから。論理的なルールとしては正しいかもしれないが、その価値観に納得できないんだ。


 そう思い至ったのは、子ども時代の体験が大きいのですか


 小学校の時はガキ大将だったが、割と優等生で級長をやっていた。決めるのは多数決。小学生の級長は1学期に一番人気の子がなる。俺は毎回、1学期に級長をやっていた。ところが、5年生の3学期に風邪をひいて20日ほど学校休むと、学校に行っても、急に誰も寄ってこなくなった。
 どうやらその時の教師が「ある人が間違って権力をふるっている。民主主義としておかしい」と言ったらしい。すると、6年生の時、初めて1学期に級長にならなかった。そしてクラス全体が、長谷川派とアンチ長谷川派に分かれてほぼ1年間、けんか、抗争状態だよ。泣きながら相手を殴った覚えもある。仲間だと思っていた子にも裏切られたというか、その時のショックは大きかった。ガキにとって小学校のクラスは全世界じゃないか。
 投票で選ばれないと嫌われるのかと思った。小学校の時の事件で、多数決で選ぶ投票制度、民主主義というものを信用できなくなったというのはあるかもしれない。

……大して深みのある理屈や体験じゃないな(笑)でもコレクションだけしておこう