■議会民主主義の制度は、「人民の考えはけっこう間違う」という前提で設計されている―法哲学者・大屋雄裕インタビュー
http://blogos.com/article/48504/
■誰でもできるような方法でしか発信しない人の意見は、政策に反映されない―法哲学者・大屋雄裕インタビュー
http://blogos.com/article/48504/
基本的な論点ではあるが、タイトルだけでも面白そうでもある。
後編でとくに面白かったところを抜粋
審議会の場合も、利害の対立構造があればその双方からメンバーを集めるようになっています。例えば労働問題であれば、労使双方から委員が選ばれている。しかし、例えば著作権関係の場合、レコード会社や作曲家といった伝統的権利者の団体はありますが、その権利を利用する事業者、AmazonやGoogleといった新しいメディア側は業界団体をもっていないので審議会に呼んでもらえない。さらに個別の利用者の団体もないので呼んでもらえないという事態が起こります(MIAUの結成はこの点への対策でもあります)。従来型産業の方が優位になりやすいという問題は、確かにあるでしょう。
―アメリカではGoogleなどが、「とりあえずやってしまって、問題になったら考えればいい」といった進め方をしているイメージがありますが。
大屋:アメリカの場合は結局、訴訟で片をつけるという考え方も強いですね。つまり訴訟で訴えられることによって、相手を政策形成の場へと引きずりこむわけです。Googleのやり方には典型的にそういう側面があり、まず実現したいことを実現してしまう。文句がある人間は訴えるでしょうから、その訴訟で一定の条件を定めて和解へと持ち込むという形で、政策をつくってしまうわけです。
おお、端的に元経産省の役人(現在国会議員)がおどろいた、と言ってることと同じだ。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100227/p4
■斎藤健談
わたし前の仕事(経産省)をやっていたときに、アメリカの行政官と話して「こんなに意識が違うのか!」とひっくり返ったことがあるんですよ。それは何かというと、アメリカみたいなとこで情報のね、新しい技術、情報の新しいビジネスがどんどん出てくる。
こういう問題が起こったらどうするんだ、こんな問題はどうするんだとわたしが聞いたんですよ。そしたらアメリカの行政官は、「それは訴訟になるから。裁判所が結論を出すからそれでいいんだ」って。
日本の場合は何か問題が起こっちゃったらいけないから、行政はああしなくちゃいけないこうしなくちゃいけないって考えちゃうんですよ。ところがアメリカの行政官はあっけらかんとして「あ、それは裁判所が結論を出すから」って。それで終わり。
つまり技術革新みたいにものすごくスピードが早いものを、行政官の知識でなんか事前に規制しようっていうのはもともと無理な話で。アメリカのようなやつは、自由にやらせて、何か問題がおきたら裁判所が結論を出すから自由にやれって、そういう文化風土があるんですよ。